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美術館で会った人だろ、アンタ。 9

没後50年 福田平八郎
Fukuda Heihachirou:A Retrospective
大阪中之島美術館

うん、中之島。ひさびさかな、そんな気分。
足をはこぶともんすごい人の波。
ビビっちまった。
なんでと思ったら、絶賛同時開催中の
モネ展に来た善男善女の波だった。
お目当ての福田平八郎展はやや混みだった。

So it goes.

Retrospective、英語のほうが分かり易いね。
福田平八郎の画業を
phaseに整理して開陳していくという
ナカの人の研究結果を踏まえた展示だね。

さて今回も一部作品は撮影可だったね。
誠にもってありがたい。

でもね撮影不可でも興味深い作品が
そこそこあったんで
しっかり認識しておきたいな。

例えば、《兎》、《池辺の家鴨》、
《驢の図》、《曲芸の図》
なんかノビノビした筆で
諧謔味のある作品だよね。
この人の資質の中に
こういう要素もあったんだね。
こっちに行かなかったことは
ちょっと残念な気分になったね。

《春の風》。
一瞬、《きいちのぬりえ》かと思っちゃった。

で《緬羊》、面妖な緬羊。
質感がステンレスウールみたい。
イロイロやってみたんだね。
ここまでが第1章 手探りの時代。

第2章 写実の探求。


《安石榴》
ウィリアム・モリスの
ジャポニスム・シリーズ第1作。
ちょっと無理があったかな。
なんだかそんな香りがするんだね。

《朝顔》
装飾としての日本画。
もとい、装飾としての絵画。
あと《茄子》《菊》。
福田平八郎は
日本画のlegacyに対する
respectを持ち合わせているということ。
例えば写実を極めて細部までとことん書き込む。
でもいつも細部に神が宿ってくれる訳ぢゃない。
このことが、
次のステージへの道になったんぢゃないかな。

動物とかを描いた作品が多くなってくる。
特に池の中の鯉を描いたものがやたらある。
鯉の季節だったんだね。
例えば何匹か鯉が群れている。
池の中のどの辺りにいるのか描き分けてる。
しっかりと観察した結果だよね。

でもね気になることがあるんだ。
描き込みは立派なもんだけど「いのち」が感じられん。
そして
福田平八郎の描く鯉はずーーーとズンドー。
この後の時期になっても、あくまでもズンドー。
まぁそういうことなんだろうけど気になるね。

第3章 鮮やかな転換。

《漣》
これが見たかったんだよ。
会期中にちょっと居なくなってたんだ。
作品の保護?
重要文化財だからね。
と思ってたら撮影可。
ふーーん、有難いことだね。
テレビで諏訪敦さんが
「これは写実だ。私はそう見ている。
 だから写実絵画としてみるべきだ。」
っていってた。激しく同意する。

余談だが、諏訪さんの扱い中途半端ぢゃない。
(>NHK)

でわ何を写実したかと問うてみると
福田平八郎は、見ればわかるだろう、
って答えるんだろうな。

アタシの見解は似たようなもんだけど
あえて言葉にすると
水面に反射する光を
時間の流れに移ろう姿として写実してみた。
trial&errorを含めて
しんどいけど野心的なことだったんだろうね。

そこから捨象するという表現が見えてくるんだけど。
《鴨》《双鶴》という作品は面白い。
同材題の過去作に比較して
題材の描写がシンプルに
そして水面の表現が何か主張している。

《鮎》いやどの鮎だよってなるけど
それほどに題材として登場頻度が上がってきてる。
でね鮎がどのように表現されるか
が、イロイロ変わっていくのが面白いね。

《青柿》
菖蒲とか牡丹とか装飾的な題材の描写にも
変化が見られるんだけど
すごい力強い主張が見られるようになった。

《竹》
一連の竹の描写がこれもシンプルに
というか、神の宿っていない細部の捨象
が進行していくみたいだな。

第4章 新たな造形表現への挑戦 です。

《花菖蒲》
昭和25年作のこの作品に目を引きつけられた。
表現はシンプル。でも輪郭線に力がある。
福田平八郎の菖蒲はこれだよね。
ほら植物の生命力を感じるだろ。


《新雪》
新雪はサラサラしている。
新雪はキラキラしている。
新雪はモフモフしている。
だけど新雪は冷たい
親切ぢゃない。


《雲》
君も空を見上げることがあるだろう。
雲を眺めてごらん。
ふつーに面白い芸をしてくれるんだ。
だから時間の流れを意識してみるんだ。
これから一発芸します、
の3秒前。

《雨》
和瓦だね。素焼き瓦ってやつ。
でね、夕立になると
一瞬雨粒をはじくんだけど
しぶとい雨粒はなじんでしまうんだ。
そんでもってお肌しっとりってなっちゃう。
そういうことだね。


《氷》
ここまで来てしまいましたね。
熊谷守一の世界に近づいてきたね。
でも福田平八郎の世界は
切り捨てまくった先に残ったもの
って感じがするね。
そういうのを本質っていうんだろうね。



《水》
水の下には何かあるんだよね
ふつー。
でもそんなこたー関係なく
水の意思は
なんか不埒なことを意図してるみたい。

第5章 自由で豊かな美の世界へ。

《海魚》
いわゆるひとつのtrialなんだろうね。
彩色がふつーぢゃない。
筆の跡をしっかりと残してる。
ひとこと残すとすると
お前はすでに死んでいる
ということ。
      


《游鮎》
鮎シリーズもここまで来ました。
今までの鮎シリーズとは
カタチが違います。
泳いでいる姿を写実しようと
イロイロやってきましたが
いや別にこだわるこたねーじゃん
とか思うに至ったみたいだね。
福田平八郎の写実は
これでいーのだ
という境地なのかね。
きっと自由になったんだね。

conclusion.
福田平八郎という人の画業は
写実を極めようとスタートした
でも
彼が観じた本質を表現しきれなかった。
そこで
神の宿らぬ細部を捨象することによって
ブレークスルーして
結果
自由の境地を得るに至った。
OK?

うん回顧展というのは面白いね。
作品召喚とか構成とか
イロイロ頑張った
ナカの人たちに感謝だね。

このあと
アヒージョでワインをやっつけて
帰宅したんだが。
やっぱアヒージョには
昆布茶がマストだね。
ダシの旨味が違う。 

E.N.D.

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