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美術館で会った人だろ、アンタ。 11

こないだね、京都でね
世界の山ちゃんの三条木屋町のお店でね
手羽先食ったんだよ。
なんか名駅太閤口で食ったのと味が違う。
スパイシーなんだけど味が足りない。
あと、黒手羽先を食い忘れた。
じぇったい再確認の必要あるよね。
(個人的にだが。)
ということで京都に出かけたんだ。

パリ ポンピドーセンター
キュビズム展
美の革命

ピカソ、ブラックからドローネー、シャガール
京都市京セラ美術館

キュビズムってもピカソとかブラックの作品
くらいしか認識ないなぁ。
というのがアタシの初期設定。
汐留でブラック展は見たなぁ。
よく覚えてないや。
ポンピドーセンター主催で
かなり整理整頓された感じで
キュビズムというmouvementを概観してくれていた。

日「Japonaisは殆どcubismeを理解していないのです。
  この度は是非とも民草に佳き知識を授けたく。」
仏「蒙(もう)を啓(ひら)くは我らが国是。
  あい判った。しかと任されよ。」
  こんな感じすかねぇ。

その1.せかいはひろがる

ヨンべあるいはウォヨの呪物(コンゴ民主共和国)
制作年不明
ポール・ゴーガン《海辺に立つブルゴーニュの少女たち》
1989年


アンリ・ルソー《第22回アンデパンダン展に参加するよう芸術家たちを導く自由の女神》
1905-6年

芸術家達もその時代を生きてるんで
その空気の影響下で表現をするのだね。

ここでいう芸術家というのは
パリに集まってきた人たち。
っていうか
ヨーロッパのアートの世界の人。

ヨーロッパという世界の中で
いろんな表現を試みていたんだよね。
その試みのなかで
伝統的なお約束は緩くなってきたんだろね。

特に絵画の世界では
3次元の世界を2次元の絵画の中で
表現しなきゃならない。
でも網膜に映し出された映像を模倣する
ことだけが表現であるのか。

この時代のヨーロッパは
まぁ盛大に植民地をひろげてて
いろんなものを世界から集めてきてた。
結果、博物館をバカバカ作ったり
万博を開いたりしてた。

汎地球的世界からやってきた何やかやは
全くもって写実的ぢゃない。
ポール・ゴーガンとかアンリ・ルソーとか
は思っちゃった。
「これでいいのだ。」
つまり写実からの離脱が発生したわけだね。
「こう見える」ということから
「こんな感じ」ということに転進していったんだね。

その2.せんこうしゃとふぉろあー

ポール・セザンヌ《ラム酒の瓶のある静物》
1890年

うーん、作例が判りにくいな。でも細かく見てるとパースが狂ってないか、とか思う。「これでいいのだ。」

ジョルジュ・ブラック《レスタックの高架橋》
1908年

1906年から1908年にかけて
若きブラック青年は(くどいな)
南仏レスタックの地で
セザンヌ・ブート・キャンプに挑む。
でもなんだかフォービズムっぽくもあるよね。

その3.くえすとがはじまる

絵画を写実の桎梏から解放するために
二人の勇者が立ち上がった。
パブロ・ピカソとジョルジュブラックである。

パブロ・ピカソ《裸婦》
1909年

ピカソは1907年の《アヴィニョンの娘たち》で
対象の形を分解して再構成することに着手していた。
この作品では空間を細分化し、
その集積として全体像を表現するという
方法が取られている。
日本コロムビアによるデジタル録音実用化に
先立つこと60余年の壮挙である。

ジョルジュ・ブラック《レスタックのリオ・ティントの工場》
1910年

1908年秋、ブラックはサロン・ドートンヌに
レスタックでの作品を出品しようとした。
審査員であったマティスが
ブラックの作品は「小さな立方体」でできていると拒否。
これがキュビズムという名の由来なんですと。
実際キュービックだね。

今回の展覧会では、この2勇者の相互影響を
かなり重要であると考えているみたいだね。
そらそうよ、業界ってやつは広いようで狭い。

パブロ・ピカソ《ギター奏者》
1910年


ジョルジュ・ブラック《静物》
1910-11年

実際似てるね。
だもんで批判もある。
芸術家ってオリジナルでなきゃいかんだろ。
個性ってやつ。
ひとくくりで扱うにも何やってるかわからん。
抽象的といっても何を抽象してんだい。
壁紙みたいって批判もあったみたいだね。


パブロ・ピカソ《少女の頭部》
1913年

何か具象的な絵画の上に
板を張り付けたようなイメージ。
抽象的な概念ぢゃなく
見る人に謎を投げかけてるみたいに感じる。


ジョルジュ・ブラック《果物皿とトランプ》
1913年

前出の作品が無機的な結晶世界であったけど
有機的で物語世界みたいに感じるなぁ。
木材っぽい形象がよく効いてるね。

うん、これなら区別できるね。
ピカソは空間の分割を粗目にとってる。
ブラックは細かい目だよね。
二人とも認識に訴えるものとして
イメージの質感をコントロールする
異物を持ち込んできた。
つまりはアタシらを絵画世界に引き込む
仕掛けがなされたんだね。

その4.ぱーてぃーはくらんになった

ピカソ、ブラックの努力もあるんだけど
こーゆーのには仕掛ける人もいるんだよね。
先ずは画商のカーンヴァイラー。
この人は「ピカソの画商」とか
言われているらしいんだけど
彼が1908年に開いたブラックの個展をきっかけに
キュビストたちの作品は専ら彼が扱うことになった。
キュビズムの名伯楽っと。
ドイツ系ユダヤ人なんで両世界大戦ときは
エライ目にあったらしい。

もひとりが、アポリネール。
詩人、作家(若きドン・ジュアンの冒険とか)が本業。
『キュビズムの画家たち』とかで論幕を張って
キュビストたちを猛プッシュした。
うん、そゆこと。

と、ゆーことでキュビズムってのが
アートの世界で脚光を浴び始めるんだけど
パリってかフランスのまぁ独自の
世間の動きがみられて面白いんだ。
展覧会でもその辺までフォローしてて
まぁご苦労さんなことなんだけど。
つまりキュビズムに対する揶揄みたいなことが
あったんだよね。

揶揄られてる中身がそう的外れ出ない気もするけど
さすが、おフランスざんすねぇ。

ジョルジュ・モンカ《キュビズムの画家リガダン》1912年。
会場で見たけどショートフィルムだね。
画家のリガダン氏がアトリエでどんどん角々した姿に
変貌して行くさまが描かれているんだけど
描写のテンポやタッチが無声映画のコメディみたくて
なかなかに楽しかった。

さて先駆者のお二人が微妙に軌道修正しつつ
攻略を進めているうちに
こーゆーのはどーかねーと賛同者たちが
アイデアを持ち寄ってくるようになった。

フェルナン・レジェ《形態のコントラスト》
1913年

ほら筒を転がしてみるんだよ。
で色も派手目でね。
なんかご陽気なキュビズムでしょう。
個人的には抽象に振られてていいなと思た。

フアン・グリス《ギター》
1913年

なんかピカソの作品をポップにしたみたいな感じだけど、
より空間構成の強度が増しており
質感の挿入も効果的になされているような感じがする。
左上の人物像の挿入なんかシュールで好きだなぁ。
(この感想もどーかなぁとは思う。変だろ。)

ロジェ・ド・ラ・フレネー《腰掛ける男性》
1913-14年

イメージを細切れにするんでなく
抽象化して大きく扱う。
なんかハイブリッドな匂いのする作品。

ロベール・ドローネー《パリ市》
1910-12年

キュビズムの手法でもってボッティチェリ《春》の
オマージュを試みたみたい。
大作だね。
空間は分割されてんだけど
イメージの残滓がはっきり感じられる大きさに
塩梅されてる。
三柱の女神も、エッフェル塔の鉄骨もイイ感じだね。
初期キュビズムだとこのへんがまじ判らん。

ロベール・ドローネー《円形、太陽 no.2》
1912-13年

でもすかさずこっちに行っちゃいました。

レイモン・デュシャン=ヴィヨン《恋人たちⅡ》
1913年

彫刻作品も若干数あったんだけど
これが一番キュビズムっぽい香りを感じたです。
ほらイメージを分割するのに
画面に対して垂直方向ではなく水平方向に分割した
みたいな。
仕上げが雑っぽくみえるところがイイ。

ミハイル・ラリオーノフ《散歩:大通りのヴィーナス》
1912-13年

静物画の画面を分割して並び立てるんぢゃなくて
動いてる人物の時間軸を分解して並べる。
むしろ未来派、一見フォーブっぽいけど。
ぢつはこーゆーの大好物でして。

その5.せんそうがはじまって、そして

1914年7月28日から18年11月11日
初めての世界大戦をヨーロッパは体験した訳だね。
キュビズムのクランメンバーも
前線に駆り出されてしまったのだね。
兵器に用いられた迷彩模様がキュビズムっぽいので
カモフラージュ部隊に登用されるとか
スットコドッコイなこともあったそうな。
それとカーンヴァイラーがドイツ人だからって
キュビズムが「boche」(ドイツ人に対する蔑称)の絵画
とかやられたらしい。
合掌。

アルベール・グレーズ《戦争の歌》
1915年

自作の「戦争の歌」を指揮する作曲家を描いたらしいが
アタシには「いつもより多い目に回しております」
と見えてしまう。
円弧を表現するというところが面白いね。


マリア・ブランシャール《輪を持つ子供》
1917年

矩形と円形のレイヤーを積層させたような構成。
色彩の明度が高いのが気持ちイイ。

ピカソは非交戦国籍だったので従軍していない。
でベレエ・リュスがパリで初演した「パラード」で
舞台美術、衣装、緞帳を担当した。
この公演はスキャンダルを巻き起こし
さすピカ(さすがピカソ)ということであったらしい。

その6.おれたちのたたかいはこれからだ

ジョルジュ・ブラック《ギターと果物皿》
1919年
パブロ・ピカソ《輪を持つ少女》
1919年
フアン・グリス《ギターを持つピエロ》
1919年

空間の分割という観点でいうと
それぞれの部分が大きくなってる。
また写実性という見方でいうと
ありえない色使いと形で
うーんキュビストというのは間違いない。
ただ一言でいうと
判り易くなってると思わないかい。     

フェルナンド・レジェ《タグボートの甲板》
1920年

すごくモダンで21世紀の眼で見ても古臭くない。
(いや他がどうという気は毛頭ないが。)
画面の構成も間断無い。
眺めているとパストフューチャーの
ロマンチシズムまで感じ始めるね。

こんな作品を
知らなかったということは誠に残念至極。

アンリ・ローランス《頭部》
1918-19年
アンリ・ローランス《果物皿を持つ女性》
1921年

キュビズムというのは
絵画でしか意識して無かった。
彫刻作品も面白いね。
イメージをすぱっと切り身におろして
見栄え良く盛り付けしてみました
ってかんじ。
形が持ってる量感みたいなものを
再認識させられるね。
色を付けてみたのもあるね。
不見識を恥じるばかりだね。

ル・コルビュヂエ《水差しとコップ-空間の新しい世界》
1926年

この人の作にここで出会うは思ってなかった。
アタシはLC1のリプロを愛用してんだけどね。
ドローイングとペインティング、近いっちゃ近い。

「建築の現在」(1927年)にこんな一節があるそうだ。
“キュビズムという生き続ける語のもとで、
 諸芸術の探求が今なお続く。”

いろいろと啓蒙してもらえたと思った。

アートってのは現実を模倣して、
さも、そこにあるように表現するモノであった。
またはそれはヨーロッパの伝統でもあった。

アーティストが本当に表現したいのは
個人の頭の中にある概念(イメージ)ではないか。
それを表現するのための方法は?

①写実からはなれる。
②イメージを分解する。
③イメージを再構成する。
④イメージを整理統合する。
⑤イメージを編集する。←ココマデ

これでいいのだ。

あ、帰りにショップで
山口晃 大画面作品集(青幻舎)を
ゲットできたのはラッキーであるます。

でさ、時間の都合で
山ちゃんの河原町店に出かけたんだね。
疑問は解決したんだ。
手羽先の仕上げに使うタレの問題だったんだよ。
三条木屋町ではタレがかなり控えめで
スパイスの味が際立ってたんだね。
河原町ではタレがやや多めだった。
アタシ的にはこっちが好ましい。
名駅太閤口とおんなじ味。
当然黒手羽先もいただきましたよ。
そんなことで
ご機嫌で帰路についた訳であるます。

あっ!シャガールいれわすれた。
まぁいっか。

E.N.D.


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