自然とは何か

自然とは

元来、自然とは、自(みずか)らの本性に従って(自(おの)ずから然(しか)るべく)あるもの、あるいは生成するもののことである。したがって、多くのヨーロッパ語において、「自然」と「本性」とは同じことばで言い表される。そして、「自然」とよばれるもののなかに何が含まれるかは、おのおののものの「本性」として何を考えるか、また、その本性に対立するものとして何を考えるかによって、さまざまに考えられてきた。
 近代以降、もっとも典型的な「自然」の用法は、人間と自然とを対置し、人間による介入・干渉、人工品との対比において「自然」を語る用法であろう。この意味では、人手の加わらないものが「自然」なのである。しかしまた、人間についても「自然」が語られる。「人間本性」human natureとは、まさに人間における自然である。ここで人間の自然と対比されているのは、一方では全自然の創造者(神)であるが、他方では個々の人間が属する特定の社会、その社会がもつ制度や文化といったものであろう。社会、制度、文化(これらをかりに「文化的存在」とよぼう)は、もちろん人間がつくったものであり、人工品と自然の場合と同様に、ここでも、このような文化的存在をつくる人間の知的創造性、自由が、「人間の自然」と対置されているのである。
 このように、自然(人間の自然も含めて)と人間(の創造性)とを対置することの基盤には、人間は、自然の一部でありながら、同時に(単なる)自然を超えた存在である、という信念がある。だが、人間にこのような特異な位置づけを与えようとする場合、はたして何が「人間の自然(本性)」に属し、何が属さないのか、という問題が生ずる。自然と対置された人間の知的創造性、自由も、人間の自然(本性)に属するのではないのか、社会を形成し、さまざまの制度のもとで生活し、文化を創造することも、人間の本性的なあり方ではないのか、という問題である。もしこのような問いに、すべて肯定的に答えるならば、(文化の一部としての)科学・技術を駆使してさまざまの事物に手を加え、いわゆる「自然」を破壊することも、また逆に、そのような「自然破壊」を予測し、それを未然に防ぐ手だてを講ずることも、「人間の自然」に含まれ、ひいては「自然」に含まれることになるであろう。かくして、自然と人間との対比は、きわめて不確かなものとなる。
 また、近代以降の機械論的発想に基づく「自然科学」における「自然」も、確かに対象領域のうえで、前記の「文化的存在」に対して「自然的」存在に限定されているが、その適用範囲は非常に広く、人間自身にも人工品にも適用される。そこでは、「自然法則」をその本性とするような諸部分から構成されたものは、すべて「自然」なのであり、その本性(自然法則)は、(「超‐自然的」な力、奇跡を別とすれば)いかなるものの干渉・介入をも許さぬものであって、その意味では、すべてのものがつねに、みずからの本性に従った「自然」なあり方をしていることになる。さらにまた、対象領域のうえでの対立者である「文化的存在」も、けっして(人間も含めた)自然的存在から独立したものではなく、むしろ自然的存在のあり方の一側面である、といえるならば、自然と人間との対比は、ますます薄弱になるであろう。
 現在、人間に関する自然科学的探究が進展し、また、機械による人間の模倣(人工知能)が進むなかで、世界のなかでの人間の位置が改めて問われており、それは同時に、「自然」という概念の再考を求める問いである、といえよう。(ニッポニカより)

いやー、面白いですね。

何で自然に自らが使われているのだろうって
自然を考えるようになってから
自分なりの答えを探していましたが見つからず
調べて納得

あるがままの姿
本性
裏も面もない

ってことですか。

自然体ってそんな感じですもんね。

漢字考えた人ってどのくらい先を読んでたんだろう。

覚醒していたのかなぁ。

と、漢字の素晴らしさに触れるといつも思う。


自然体で生きれたらいいなぁ

いつもそう思う。

あるがままを受け入れ

自然に寄り添い

自然体に生きる。

本当の幸せがそこのある気がします。

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