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共鳴指導が今、一般的な指導方法になっている理由と、その真相について

20年前までは、先進的なレッスン方法だった「共鳴感覚の誘導」。そして今や一般的な指導方法に。

一般的なレッスンの方法として、声の共鳴感覚を主体に、レッスンしていく方法があります。
20年前までは先進的な講師だけがやっていた方法で、顔や頭部や胸部などのどこかに響きを感じることで発声を育てていく、という方向でアドバイスをしていくレッスンです。
その後いつしかポピュラーなレッスンの指導方法になったようで、今や大体の講師が主体にしているレッスン方法の一つだと思います。

それも、講師やメソッドの流派によって、様々な共鳴感覚や共鳴させる場所や共鳴させる方法(イメージ)があり、その差異にレッスンの特徴や価値を感じている講師もかなり多いと思います。

例えば
「鼻腔や副鼻腔共鳴を育てろ!」「鼻から声を抜け!」
「高音域は頭頂部に響きを集めて!」「頭の上に響きを感じて!」 
「高い音ほど上に響かせろ!」逆に「高いほど下に降ろせ!」
「声はお腹に響かせるように出せ!」「腹から声を出せ!」
「後頭部に声を当てる!」「うなじを響かせろ!」
「マスケラ(顔の表面)に響きを感じるように!」
「前歯に当てろ!」「喉頭(喉の中)共鳴が基本だ!」
「地声は胸声よ、胸に響かせて!、ファルセットは頭声よ、頭に響かせて!、ミドルボイスはその間よ、間に響かせて!」
「ヘッドボイス(頭声区)、ミドルボイス(中声区)、チェストボイス(胸声区)という声があります…」
「うなじに声を当てるようにして深く!」
「自分より数メートル先に声を響かせるつもりで!」「声を前に飛ばせ!」
などなどなどなど…などなど…

これらは一般的によく聞く手法です。(僕はほとんど言いません。)

これらの指導は本当に合ってるのか?
そしてなぜ、ここまで色々違いが出るのか?

講師によって様々な教え方があり、生徒は戸惑う原因でもあるこの表現や観点の違い。

これらは、実際に響きを感じている場合もあるし、講師や歌手による個人的な捉え方の違いや、思い込みによって色々変わてきます。

また、実際に響いているのではなく、聴覚器官(内耳の形や伸びなど)の変化によってそのように聴こえる錯覚の場合もあります。
「頭頂より上に響かせる」とか「お腹に響いた声」に至っては、完全にイメージ的問題で、そう感じる声なのだ、ということなのでしょう。

しかし、どの指導方法や言葉も否定できる物ではなく、感覚伝達でレクチャーする手法なのですから、実際に響いているかどうか計測できなければインチキだとか、イメージ的な感覚なんてレベルが低いとか言える物ではないのです。

例えば極端な話「空にボールを投げるように声を出して!」など、誰が聞いても明らかにイメージ的な指導をする講師もいます。側から聞いていると「なんだそれ?」って思いますが、そのイメージによって、受講生を上手く誘導していけるのなら、それはそれで良いレッスンと言えるわけです。イメージ誘導で声がよくなって歌が上手くなっていくならば、レッスンとしては有効なのです。

しかし、共鳴のレッスンを主体にしてしまっている場合や、共鳴場所に固執している指導では、限界は間違いなくあります。ある程度上達させる誘導ができても、誘導の限界が来るのは早いのでしょう
プロレベルまでに誘導できる確率は高くはない
と思います。

ではどうすれば良いのか? についての持論の詳細は続編で書くとして、今回はなぜそのように共鳴指導に固執するレッスンが多いのか、講師やレッスンの宗派によって、なぜ多種多様な共鳴表現や誘導方法があるのか、といった事について書いていきたいと思います。

共鳴誘導がレッスンの主体になりやすい理由

歌の練習をしている時、上達する目安になるのは、歌っている自己感覚にあります。それはもちろん当然のこと。
自分の感覚が変わっていくことを頼りにして練習していくのは、歌に限った事ではないですよね。
自分の声の感覚が変わっていくことを頼りにして練習していくわけです。

他にも録音した声を聞き、それを頼りにして練習すると言う方法もありますが、歌っている瞬間は聴力を含めた自己感覚に頼るしか無いので、当然そうなります。

その自己感覚のうち、共鳴感覚こそ講師と生徒が共有できる大きな感覚であるからこそ、主体になりやすいのだと思います。共鳴は歌っている本人も、横で指導している講師にも共通して認識しやすいものなのです。

では、なぜ多種多様な共鳴表現や誘導方法があるのか

レッスンのメソッドは講師本人が練習して上達した経験を元に指導されている場合がほとんどなので、自分の歌唱した時の自己感覚を振り返り、「こういうイメージをしたらこんな声が出た」というような記憶が元になってアドバイスをしている先生がほとんどだと思います。その自己感覚の中でも共鳴感覚が分かりやすく、かなり大きなウェイトを締めています。
そしてその共鳴感覚の感じ方やとらえ方は、かなり大きな個人差が出てくるという事なのです。もちろん声をとらえる感度の違いなども出て来ます。

そして、共鳴感覚を変えようとすると発声を操作できるのだとわかった時自分だけが声の大きな秘密を知ったと思い込む人が多いのも事実としてあります。

それによって、その個人的な感覚にこだわって深追いしてしまい、その裏の解剖学的に起こっている物理的な変化を見ることもせずに、共鳴だけにとらわれてしまう場合が多いのです。

自己感覚の内訳と、感覚の実験

では自己感覚の内訳とは、を言葉にすると、自分の発している声を聴く感じる、という当たり前のことになりますが、
その自分の声の聴き方にはどのくらいの個人差があるのでしょうか。

声の聴き方に関しては、音程の修正の説明を書いたnote記事にも、以前いろいろ書いてきましたが、意識一つで自分の声の聴き方がかなり変わってしまいます。その習慣が自分の歌を作っている真の部分でもあるのです。

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どういうことか体験する為に、例えとして以下の実験をやってみてください

頭の上に響く声を聴こうとして声を出す のと、
喉で鳴っている声を聴こうとして声を出す のとでは、
声の質感さえも変わってきます。

この変化には大きく2つの側面があります。

意識によって声が変わる事についての2つの側面

一つは耳と聴覚の働き

①何もせず普通に声を出す
②耳を手で塞いで声を出す
この2つの状態の声の違いは誰でもすぐにわかるでしょう。

無意識だと両方の状態で、全く同じ発声をするのはかなり難しいはずです。
普通の人は耳を手で塞いで声を出すと、無意識ですが、いつもより声が大きくなってしまいます。意識して同じ発声にしようとすれば、なんとかできるかもしれませんが、結構な集中力を使います。

次に、少しずつ分かりにくくなると思いますが、
①耳の後ろに手を広げて(耳を囲うようにして)声を出す
②耳の前に手を広げて(耳を囲うようにして)声を出す
この2つの状態の違いに気がつく人は多いでしょう。

だんだん分かりにくくなりますが、
①耳の横に3cmの隙間を開けて手で囲うようにして声を出す。
②耳の横に30cmの隙間を開けて手で囲うようにして声を出す。(または完全に手を離す)
どうでしょうか?
先ほどよりも微細な違いにはなりますが、同じような現象が小さく起っています。

この距離が5cmと10cmの差とか20cm離した時と手を下ろした時の差などは、さらに難しくなり、繊細に感じないと発声が少し変わってしまう事に気が付けないかもしれません。

ではこれはどうでしょう、
A.眉毛を全開に上げ目を見開いて声を出す
B.眉毛を下ろし目を細めて声を出す
かなり発声そのものが変わってきます。

これは表情筋の動きが発声器官が筋連鎖を起こしている分かりやすい例でもありますが、眉毛をあげると耳をすましたような筋連鎖が聴覚機関も及び、先ほどの手を耳の近くに置いたり離したりするのと同じように、内耳を動かし、微かに聴こえ方の操作をした事にもなるのです。

聴き方やイメージの持ち方一つで、表情筋や首の動きが無意識に影響を受け、声帯の動きにまで筋連鎖を及ぼす、分かりやすい例なのです。
そしてまた、聴覚器官(内耳の形や伸びなど)の形や位置の変化も変えてしまったと言えます。

戻って、先ほどと同じ実験をもう一度やって、実験A.B.と比べてみてください。
C.頭の上に響く声を聴こうと思って声を出す
D.喉で鳴っている声を聴こうとして声を出す
声が変わってきます。

もう気が付いた人もいるかもしれませんが、
C.頭の上に響く声を聴こうと思って声を出す
と、
A.眉毛を全開に上げ目を見開いて声を出す
と同じような感覚になります。

違う言い方をすると、
頭の上に響く声を聴こうとして声を出すのと、.眉毛を上げ目を開いて声をを出すのと、同じような顔の動きをしてしまう訳です。

要するに、どのように声を聴こうとするか、によって、表情筋や口内の筋肉、耳周りの筋肉、喉の周りの筋肉の動きに影響を与えて、物理的に聴覚器官や共鳴器官にも影響が出てくるし、発声の仕方(声帯の状態)まで変わってくる、という事になるのです。

もう一つは 発声の感じ方

この実験するのは難しいのですが確固たる事実なので、おさえておきましょう。

自分の声を聴くという「自分の発声の認識」は、単純に聴き取れる音声だけを把握しているのではなく、声の振動を、喉や口内など共鳴する場所全体で感じているという隠れた事実です。

自分の声を聴くこと = 声を体の外にでた音として聴く+口内や頭部などの共鳴感覚で感じながら聴く+ 聴覚ではなく喉などの振動や摩擦感覚を感じる

これが何を意味しているかというと、自分のいい声とか悪い声など判断しながら練習している歌唱中の自己感覚とは、無意識だけれど、聴覚だけではなく喉を中心とした摩擦や振動感覚をもいつも感じながら判断しているわけなのです。

これはどうしても一緒になってしまいます。
人によっては、自分の声を聞くということの内訳が、聴覚よりも喉の感覚の割合の方が上回っている人すらいます。しかも、そのことには本人は全く気付いていません
そういう人は、共鳴を変えようとして練習しても、喉の感覚で無意識に良い悪いを判断してしまい、声の抜けがよくなっても喉感覚に納得がいかなければ良い声とは思えない(良い声には聴こえない)と思い込む事になります

思い込む事になります、という表現が的確なのは、声は音としてちゃんと聴こえていても、他人の声のようには冷静に聴けず、喉の感触などを踏まえた先入観を多分に持ってしか自覚できないからなのです。

僕のレッスンの誘導によってよくある例ですが、素人さんがプロ顔負けの素晴らしい真っ直ぐな声でロングトーンができた時、その直後に感想を聞くと、「こんな不安定な声が良いとは思えない」と言ったりします。

真っ直ぐ安定して抜けのいい声ほど、喉の感覚が薄くなるので、普段から強い発声感覚を持っている人ほど、抜けの良い声を不安定な声と認識して、そう聴こえてしまう(感じて先入観を持ってしまう)のです。

しかし正確には、不安定に感じるだけであって、聴こえている声自体は、他人も本人も、同じ音声を聴いいるのだから、他人が聴いて真っ直ぐ伸びている声を、本人にはフラフラ声に聴こえるのはかなりおかしな事ですよね。
しかし、そう錯覚してしまうほど、聴覚でとらえるよりも、喉の振動感覚で聴いたつもりになっている割合の方が多いという事なんです。

録音した声を聴く時には喉感覚はついてきませんので、録音を聴く事に慣れていない人は、当然自分の声のイメージと印象が違って聴こえてしましいます

そして日本人の多くは、喉の振動感覚を強く感じている人が多いようで、それは他の国の言語に比べても、日本語の発声感覚の特徴であると言っても良いと思います。
これは留学生やバイリンガルの生徒を沢山教えている経験からもはっきりと言えます。

例えば、英語を日常会話で使っている人のほとんどは、喉の振動感覚よりも共鳴感覚の方が、声を出す感覚として大きな割合をしめています
そしてその方が、明らかに喉のリラックスに繋がるし、発声の負担を減らす事ができ、腹式発声になりやすく、声を楽器のように扱うためには重大な差が生じてきます。

当然英語圏の人の方が歌が上手くなるのも当然なのです。

そしてこのように、自分の声を聴くこと自体に、大きな個人差が出てくる事は、当たり前の事なのです。

「発声における自己感覚」の無意識の動きと危うさ

ここまでの大きく2つに分けて、意識によって声が変わる事についての側面を書き、「発声に関する自己感覚」の曖昧さや、大きな個人差が生じていることでが原因で、共鳴に関して見解も人によって大きく変わってしまう事がわかっていただけたと思いますが、その違いこそが、講師によっての捉え方の違いになり、共鳴感覚の表現が、全く違う事になてしまうのです。

個人の思い込みや勘違い、イメージ的表現(比喩)、などによって発声を誘導する言葉が、まるで真反対になってきたりします。

それによって生徒側は混乱し、何が正しいかわからなくなる事すら、ちょくちょくあるのです。

逆に講師と感性が合っている(似ている)場合は、レッスンが上手くいき、生徒は上達する可能性が高くなります

故に、どれが正しいとか間違っているとか、言えるものではないのです。

まとめ

このように、感性の個人差や特徴を理解する事で生徒側は自分に合う講師を選ぶ事ができたり、講師側は生徒によってどのように伝え方を変えれば良いのか、というバリエーションスキルを身に付ける事ができるようになると思います。

また、別の視点から言うと、共鳴だけを見つめてしまうと、曖昧で不確定な発声指導にしかならないことも理解し、イメージ的な共鳴感覚の表現にこだわりすぎると危険だという事もわかっていないとなりません。

共鳴は発声指導にとって、とても重要な要素ではありますが、レッスンのメインではなく、サブ要素として利用していくべき方法だと言えると思います。

なぜなら、共鳴は発声方法の結果であって、原因ではないのです。何をしたらどうなるのかを理解するモニターとして利用するだけなのです。

自分だけが気付いた声の秘密などではなく、単なる自己発見の通過点にすぎません。

まとめプラス

もっと噛み砕いていうと、「どこどこを共鳴させろ!」という指導は指導ではない。「もっと上手く歌え!」と言っているのと同じレベルの指導という事になります。
「もっと上手く歌え!」と言ったら上手くなるのものなら、そもそも講師などいらないと思いますが、20年前はそれでも発声感覚をより理解できる、先進的なレッスンだったわけです。

どこどこを共鳴させろ!」と言われても、そうできない人もいたり、今日できたとしても明日はできなくなる人もいます。
練習でできてもライブ本番ではできないという場合も出てきます。となれば、偶然に近い事をやっているにすぎません。

良い発声の時はここが響くよ、というのは練習の目安にはなりますし、自主練習の時には、自己感覚の大きな助けになります。
そして、
指導者は体のどこをどう整え、どのような動きをすることによって、どう共鳴していくのかをきちっと理解できていて、やっと正しい誘導ができるようになるのです!

余談

自分特有の感覚と、独自の表現だけでは、万人に教えることはできません。ないので、そこまでしか理解できていない講師の場合は、講師というよりは師匠というような考え方で、私の歌が好きなら「私の歌唱を何度も聞いて、歌唱法を盗みなさい!」と教える方が向いているし、潔くカッコいい先生だと思います。

僕が勉強し始めた頃は、そういう事をスパッと言える、しっかり歌える人だけが先生をやっていた時代なので、発声理論を研究するような人が少なかったのかもしれません。

海外でレッスンを受けたときは、モロにそんな感じでした。発声の理屈を聞くより、実際の歌唱を目の当たりにした方が、より多くのことを学分ことができました。
もちろん語学力不足のせいもあったのは否めませんが、言葉を聴くことより、実際に歌を聴くことの方が情報量が格段に多い、ということなのです。
論より証拠ということでした 

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