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君と私は何者なのか。

今は、わずかながら知識というものを身につけて、学問的な視点で表現することもあるけど、小さな頃から私の頭の中はそれほど変わっていないなぁと思うのです。

私の目に映っていない人や、場所や、物は、私に見えていない間は存在していないのではないかと疑っていました。だって、見えていない間の存在を、どうやっても確認することはできなかったのです。

本当は私ひとりぼっちで、誰もいなくて、なんにもなくて、目に見えるところだけがその都度現われているんじゃないかなぁ・・・って、考えているような子でした。

大人になってどうかというと、やっぱりどこかで「見えていない世界は存在しないのではないか」って疑っているようです。そしてそれは、意外とはずれていないこともわかってきました。


そんな私がたった一人頭の中で考えてきたことの出口をつくったら、留まることをしらず吹き出し始めました。

こんなInstagramをあたらしく始めたのです。

https://www.instagram.com/tei.book_of_changes/

一日何度も沸いて出てくるから、度々投稿してしまっています。

誰かに向けてつくっているわけではなく、自分のためでしかないような投稿なのに、お付き合いくださる方には本当にありがとうございます。小さな私の頭の中にスポットライトが当たって、とっても喜んでいるようです。

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そんなInstagramの中で、「私は私でしかない」というような記述をしました。

ここで、もしかしたら浮かび上がる一つの疑問は、そもそも「私」とは何者なのか?

この問いを根底に持っている方は、少なくないと感じます。みなさんはどうですか?


私はいったい何者なのか・・・そう、自問自答を繰り返します。でも、答えはなかなか見つかりません。これだ!と思って見つかったような気がしても、やっぱり違ったかもってなる。そしてまた、探し始める。

「私は何者なのか」

なぜ答えが見つからないのかはとても簡単で、答えのない問いだからです。

私は何者なのか?それに答えられるとしたら、唯一の可能性は「何者でもない」だと思います。

何者かでなければならないという視点からスタートした問いの答えは、どこを探しても見つかりません。でも、「私は何者でもない」というところからスタートするとどうでしょう。

そもそも何者でもないとしたら、私たちは今から何者にもなれるし、何者にもなれないとも言える。何者であってもなくてもよいということが浮かび上がるのを感じます。(なんだか意味不明かな・・・)

何者かが具現化するのは、何者かという実態が存在するというよりも、ただ、自分か自分以外の誰かが、そうだと認めたということだけです。


君と私は何者なのか。

どこを探してもどこにもその本当の答えは見つからなかった。そりゃそうだ。だって、何者でもなかったんだもの。

何者でもなく生まれた私たちが、何者かを探す旅をする。そしていつか、何者でもなかったというゴールにいたるのかなぁ。

そう思うと、この旅の間、漠然と悶々と探し続けることよりも、私が何者かを自分で表現したり自分で創造したりするほうが楽しいなぁって思うのです。

さぁ、今日はどんな私でいようかな。何者でもないなんて、最高じゃない??

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