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意図を超えて

私は五行ごはんと易ごはんという、ちょっと風変わりなごはんをつくっています。

何故だかわからないけど、久しぶりにこの、私にとって特別なごはんについて綴りたくなったので、良かったらお付き合いください。


五行ごはんのベースには陰陽五行思想が、易ごはんのベースには易経があります。

どちらも何千年もの歴史をもつ概念だけど、それをごはんにしようなんて突飛なことを思いついた人はあまりいないかもしれません。

五行ごはん、易ごはんとも、薬膳やマクロビオティックの考え方とは全く違うものです。その最大の違いは、意図しない料理から生み出すことにあります。

「意図しない」なんて、言葉にするたびにムズムズします。だって意図しないと言った瞬間に、そこにくっきりと意図があらわれるのだから。

このもどかしさ、矛盾への、私の挑戦でもあるのかもしれません。

それは、道とは何か?無とは何か?の概念と似ています。似ていますなんて、そこに挑んできた先人たちへ烏滸がましいことは重々承知の上で。

道とは何か?
それは、言葉では到底表すことができないもの。と、言った瞬間に道から遠ざかります。

無とは何か?
それは、全てのものが何も存在しないこと。
と、言った瞬間に無は呆気なく消えてしまいます。

意図しないごはん。

そんなものを、つくれるのか…。


私は、意図が悪いものだとは思いません。

人が意図することができるのは、与えられた特権だと思います。意図を否定するならば、人間的な営みの全てを否定することになります。

意図することができるから、私たちは運命というベルトコンベアの上を流されていくだけのものではないと言えるのではないでしょうか。


私は易をやっているけど、それはまさに意図に関わることです。易から現れるサインを意図することで、私たちは人生を切り開くことも、生き方を変えることも、危険を避けることも、できると捉えます。

それなのになぜ、意図しないごはんなのか。

それは、ある意味、意図的な現実を生きる私の中のバランスをとるためであり、この世界の矛盾を知るための実験でもあり、そして、生命への儚い希望でもあります。

人間が意図することの大切さは、様々な形で叫ばれています。

でも、自然はどうでしょう。海は?山は?草木は?風は?意図的に存在しているのでしょうか。

人間が自然の一部だとしたら、究極の生命の形は意図せず存在すること、ではないかと思うのです。


人為を超えたいという、人為の中に埋もれながら、私は陰陽五行と易をもとに、ごはんをつくっています。

でも不思議なことに、そのごはんを食べてくださった方から様々な反応をいただくのです。

五行ごはんや易ごはんを食べると、体が温かくなった。
お腹のあたりで、何かがくるくる回っている。
五行の色の夢をみた。
易の卦が自然に頭に浮かんできた。
勝手に涙が流れてきた。

それはまさに、私が「意図しない」答えばかりでした。


元気づけるとか、何かを教えるとか、何かを伝えるとか導くとか。そういうことではない。

つくるだけで、食べるだけで、その人が必要なものを勝手に受け取り、その人が必要なことを勝手に起こし、その人がその人として自然に生き自然に死んでいく。
誰かが意図をもたなくても、本来自然は、人は、それをするのではないかなぁ。

これが私の、生命への儚い希望です。


易は意図と関わると書きましたが、易の中には天雷无妄(てんらいむもう)という卦があります。

无妄は、みだりでない、と書きますが、無為自然の境地ともいえるこの卦は、易の中で最も意図から遠いところにある卦だという気がしています。

この卦に出逢うたびに、私はいつも頭を抱えます。

やろうとするな、期待をするな、作為的にするな、自然のあり方から離れたことをするなと、无妄は伝えてきます。

无妄は、元(おお)いに亨(とお)る。って言われてもねぇ、それが人間、一番苦手なんだよ。って。

でもきっと、できる。
できるから、卦は立つんじゃないか。
そう思うから、この捉え難い卦のメッセージを言葉を尽くして説明します。


意図しない。

それはもしかしたらこの世界への、最大の信頼ではないでしょうか。

あなたも、私も、そのままでいいって、本気で言えるの?起こること全てに、OKが出せる?

自信がないからこそ、私は、その答えを五行ごはんや易ごはんに委ねたい。
食材となる自然の産物のあり方に、できるだけ意図という邪魔をしないようにして。


本質は、真ん中にある。

意図することの大切さと、意図しないことの尊さの、中するところに私たちは生きている。

私はきっと、それを感じたいと思っているのです。



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