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月下美人の様なその人を私は一生忘れられないんだろう。

朝。

静寂な部屋で、初対面の彼は私に「綺麗な名前ですね。」と言い、静かに微笑んだ。

目にかかる前髪から覗く伏し目がちな目が見えて、長い睫毛が上品にゆらめく。
その様があまりにも憂いを帯びていて、美しくて、私は次の言葉を発するのを忘れるほどに見惚れていた。

彼の存在はなんだか異質なものだった。
この部屋もこの現実世界も似合わない…
そんな寂しい気持ちにさせた。


柔らかそうなくすんだ茶色の髪、ほのかな香水の香り、彼の選ぶ言葉から滲み出る知性、優しい話し方、細くて長い綺麗な指。
ひとつひとつが強く心を捕らえて、彼の存在の記憶として私の中に蓄積されていった。

彼は、月下美人というお花が好きと言った。
夜にしか咲かない花らしい。

彼の儚さをあまりにも十分に象徴したお花だったので、この人は自分の魅力を本当は全部わかっていて言っているのではないだろうかと、内心笑ってしまった。

彼との文通のような1日1通のショートメールがささやかな日常になった。

誰かと深く世界を共有することは怖いけれど、それを超えてきてくれるような彼の在り方を尊敬した。


ある日彼は私に一冊の哲学書を貸した。

とても難解な本だったけれど、彼の、海のように底が見えない内側を、少しでも理解したいという気持ちがあった。

彼と哲学的な話をするのはとても楽しかった。

彼の体調が良いので一緒に浅草の街を歩いた。



夜の浅草はどこか非日常感が漂っていた。

彼は初めて地球に降り立った宇宙人のように目をキラキラさせながら、テーマパークみたいですねと言った。

東京に住んでいるのに、10年ぶりに来たらしい。

もう少し遠回りして歩いていいですか、時間大丈夫ですか、と言い辺りを見渡す彼がいつもより無邪気で楽しそうで、その姿に目を奪われた。

この人がこの先も、いつもこんな風に笑っているといいなと思った。

彼はおみくじを引いたことがないと言ったので、浅草寺でおみくじを引かせてみると、見事に凶を引いた。私は大吉だった。笑いながら大吉を譲った。
その帰り道、大人の男性が履きそうな皮靴を履いたその足を、見事に水溜りに突っ込んでいた。



満月の夜、月が綺麗ですねというメッセージと写真が送られてきた。
彼は体調が悪くても絶対に言わないことを察した。この世界に文句を言うこともなかった。

ただただ自分に降りかかる、目に見えない全てを受け入れていた。

自分の病やこの世界を受け入れて、淡々と日々を生き、時々美しいものに感動する彼の自然な生き方は、自分には到底出来ないものだった。

綺麗ですね、と返したその夜は、月や夜が似合う彼のことや、命のこと、この世界のことを考えながら眠りについた。

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