ガルクラMV感想 仁菜と桃香について



はじめ

 仁菜と桃香の関係の変化と呼応するように、1~7話まででMVでの二人の振る舞いが変化していることには気づいている人も多いだろう。たとえば第1話と第3話は「視線」で二人の関係が示唆される。第5話と第7話もちょっと「視線」が関わってくるけれども、第1話、第3話とはちょっと違ったやり方で、「視線」が演出として用いられているように思う。

 MVについては、いろいろ語れることはあるだろうし、実際語りたいからこれを書いていくわけだけど、思いついたことを、主張というより思いつくまま書いているので、脈絡はないそれぞれの長さもてんでバラバラである(「声なき魚」は長くなって、節を設けてしまった)。気になるところだけ読んでもらえれば。

第1話 「空の箱」 見まもる桃香

 第1話「空の箱」で、二人の視線が交錯するそのはじまりは、たしかに仁菜の呼びかけが桃香に届いたことを意味している。カメラが互いを見交わす二人のあいだを抜けて、空を映していくはじまりの演出はカッコいい。とはいえ、この瞬間をのぞくと、このMVでは二人の視線は交わらない。仁菜はスタンドマイクを握って立ち、桃香はその彼女をギターを弾きながら時折見やる。仁菜は基本的に前方を見据えたままで、桃香のまなざしはそれを見守るようだ。自分の思いの丈を歌に乗せようと必死な仁菜と、その彼女を見やる桃香という構図。仁菜が見据えているのは過去の自分の幻影であり、真っ直ぐ前を見据え歌う彼女と、それを見守る桃香という形で、このライブは進む。

 桃香が見守る仁菜には、まだバンドやライブといった意識はない。言った通り彼女が見据えているのは過去の幻影であり、ここでの仁菜はライブ、バンドというよりも、自分が間違っていないことを証明しようという思いの猛りを、剥き身のまま歌にぶつけようとしている、といったほうが近い。だがそこにはたしかに「ロック」の意識の萌芽のようなものがあり、それは第3話のライブでめざめることになる。なんにしてもここでは、自分の思いを歌にこめようとする仁菜と、それを見やる桃香という構図が主になっている。

 第3話「声なき魚」になると、二人の間には視線のやりとりが発生するようになる。突発的にはじまった1話のライブと比べると、バンドという明確な繋がりを得た二人の信頼関係が出来上がっている。

第3話 「声なき魚」 仁菜のめざめ

 ところどころに見られる、仁菜の視線と一体化するようなショット? が面白い。もちろんこれだけでなく、このMVは「視線になる」あるいは「視線を合わせる」という演出が取り入れられている。「視線を合わせる」演出についてはそんなに触れなくても、MVを見れば気づける。ライブそのものと並行して起こる仁菜と桃香の視線のやりとり。からかうような視線で仁菜を初舞台へ導いていく桃香。それに応じてマイクを手に持ってパフォーマンスへ移っていく仁菜。

 考えたいのは「視線になる」という演出のほう。つまり、カメラが仁菜の視線を借りて、あるいは乗り移って、世界をとらえる演出について。

仁菜の「視線になる」こと

 それは今述べた二人の視線のやりとりのすぐ後にやってくる。上の視線のやりとりの直後、カメラは桃香をななめに傾いだ視覚でとらえるショットに移行する。これ、仁菜が桃香に送った目配せではないか? というのも、直前に仁菜が顔を屈め気味にして、もういちど桃香のほうに視線を送っている。だとすれば、MVのカメラは仁菜の視線の移動に乗り移って、そのまま仁菜の「視線になる」わけだ。そうしてカメラ=仁菜の視線には、自分の歌にハモりを合わせてくれている桃香が映りこむ。

 このショットと一体化した斜めの視線の動きには、マイクを取ったはいいものの、まだそうやって歌うことに戸惑っている仁菜自身の不安が表現されているように思う。

 からかうような視線には反発ぎみに見返したけど、やはり仁菜は桃香を信頼している。この信頼が、不安によって思わず桃香を見やってしまう視線にあらわれるのだ。最初のからかいをまじえた視線のやりとりも信頼の証であれば、このやや不安まじりの傾いだ視線も信頼の証だ。二人の(というよりここでは仁菜のだけれども)互いにたいする思いの多層な面が、この一連の「視線を合わせる」ことと「視線になる」こと、このほんの少しの時間のあいだに繰り広げられる。

スクリーンが象徴するもの

 このライブでは、ステージの反対側にスクリーンが設置されている。これが演出上けっこう示唆的。ただそこにあるオブジェクトというだけではない意味合いを与えられているように思う。

 仁菜は、そこに映る自分を視界におさめながら歌うことになるだろう。このスクリーンに映った自分を、彼女は意識せずにはいられない。だとすれば、スクリーンを通して彼女は、他の人に自分がどう映っているかを知り、それを意識することになる。このスクリーンは、はじめて「ステージに立って観客に見られる自分」を意識することになる彼女自身の自意識の、象徴なのではないか。とすると、スクリーンの前で風船が弾ける演出にも暗示的に思えてくる。風船が弾けるとき、仁菜の中でもなにかが「弾け」、この瞬間に、彼女のなかで「ロック」がめざめるのだ。

 このスクリーンもふくめ、全体として、このMVはステージを背後から映し出す、あるいは、背後にまわろうとする動きを内包したショットが多いように思う。これもまた、はじめてバンドとしてステージに立つ仁菜の視線を反映しようとしているのではないか。総じて、はじめてステージに立つ仁菜の意識、その緊張や高揚に寄り添った演出が随所にちりばめられているように思う。歌を歌う自分へのめざめ、あるいは自分のなかに眠る「ロック」へのめざめが、それらの演出によって表現されているように思えるのだ。

第5話 「視界の隅 朽ちる音」 シンクロする二人

 臨場感たっぷりのこのMVが1番好きかも。仁菜と桃香に関して、このMVで注目したいのは、二人の、同じ方向を向いた「視線」、そして動きの「シンクロ」。サビの部分で、二度、仁菜とコーラスの桃香がならんで歌っている様子が映される。1話のように桃香が仁菜を見やるのでもなく、3話のようにお互いに視線を交わすでもなく、二人は同じ方向を向いて歌う。さらには間奏で二人はまったく同じリズムに乗ってヘドバン。二人の動きは重なり合って、シンクロする。

 仁菜が「私の歌」だという桃香の言葉と、自分が「桃香の歌」だという仁菜の思い、それらの意味するものが、ここにあるような気がする。

 二人の思いは、このライブのなかでは、個を越えてぴたりと重なり合っていて、それが二人の体の動きに反映され、また、カメラが並んで歌う二人を映し出すことによっても、それが表現されている。

第7話 「名もなき何もかも」 歌を介して

 第7話。ここはちょっと深読みしすぎかも。桃香の正しさを証明したい仁菜と、尻込みする桃香。二人の思いのすれ違いを反映するように、このライブでの桃香は、終始、仁菜に背を向ける。桃香の表情は重苦しくて、二人の視線はまじわらない。仁菜は自分の立っている場所からほとんど動かずに、身構えるような体勢をとる。そして握りしめたマイクにむかって思いの丈をぶつけつづける。そうやって彼女は、ほんのすぐ隣で自分に背を向けている桃香に自分の思いを訴えようとしている。

 曲の歌詞自体は桃香の揺れ動く心情といった内容。自分の苦しみを葛藤相手の仁菜に歌わせるというこのシチュエーション、なかなかぶっ飛んでいる。

 とはいえ、この構図自体はものすごく考察の余地がある。一見、第7話では第3話のように二人の視線は交わらないし、第5話のように二人が同じ方向を向いているのでもない。だが、それは二人が完全にすれ違っていることを意味しない。二人はむしろ、第3話や第5話とは別の形で、互いと繋がろうとしているように思える。

 つまり、仁菜のほうは「歌声に自分の思いをのせる」ことで、桃香のほうは「歌詞とメロディーに自分の思いをのせる」ことで、互いの気持ちを訴え合っているともとれる。さきほど二人の視線が交わらないと言ったけど、すくなくとも仁菜のほうではそれはわざとだ。彼女はあえて桃香を見ようとしていない。それは、桃香に自分のすべてを訴えるため、歌にぜんぶぶつけようとしているからなのだ。

 ここでは、運命的な相棒とさえ言える仁菜と桃香、この二人にしかできないやりとりが起こっている。桃香の歌である仁菜と、その彼女に歌をあずける桃香、この二人ならではの訴え合いだ。

 あと話は変わるけど、自分が「いいな」と思ったのは、アニメではなく、公式のフルのMVのほうにしかないシーンなのだけど、桃香が一度だけ、ふっと微笑む箇所があること。彼女の音楽に対する、自分では抑えきれない思いが、その一瞬に顔を出す。だがそのような安らいだ表情はこのただ一瞬だけ。あとは終始、重苦しい表情で、そこに彼女の葛藤の深さがうかがえる。

おわり

 MVをMVとして見て楽しむのも面白いのだけれど、仁菜と桃香の関係の機微というか、ストーリーの進行なかで揺れ動く二人の心情が、演出のなかにさりげなく盛り込まれていて、そこをついつい跡付けてみたくなった。第7話のライブなんかは、二人だからこそできる魂のぶつけあいというか、そんなエモーショナルな感じを自分は見出してしまっているのだけれど、深読みしすぎかもしれないとも思う次第。


自分によって書かれたガールズバンドクライの記事を以下にまとめていくことにしました。

 




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