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歪んだ愛 推しには不幸になってほしかった

『機動戦士Zガンダム』を初めて観たのが幾つの時だったか覚えていない。前作である『機動戦士ガンダム』を観終わってすぐだったので、おそらく学生の時だったと思う。

その時の私が一目で夢中になったのは、主人公のカミーユ・ビダンでもなく、シリーズを通した敵役のシャア・アズナブルでもなかった。

敵役のセミボス的存在である、ヤザン・ゲーブルであった。

当時の私はひどく気が弱かった。思ったこと、言いたいこと、心に秘めた本音、何ひとつ表に出すことが出来なかった。当時の恋人にすら気を遣い、本当の自分を隠して生きてきた。

そんな私が彼に惹かれたのは必然だと思っている。

ヤザンは、己のポリシーに反する作戦に参加しなかった。それでいて、メリットになる提案には積極的に便乗した。自分より何階級も異なる上司にも平気でタメ口を使った。部下を、仲間をホモソーシャル的に大切にした。私の持たないものを全て持っていた。

そうして、自分の能力を最も活かせる行為を仕事にし、心からそれを楽しんだ。

しかしその「仕事」とは、人を殺すことだった。

私は彼を敬愛した。けれど彼は嗤いながら人を殺すひとだった。それが彼の生き様であり生き甲斐だった。

それは赦されないことだと思った。

彼の所属する組織は壊滅し、彼は主人公により命の危機に晒されるも、すんでのところで身体ひとつ見知らぬ土地に辿り着いた。『機動戦士ガンダムZZ』。その作品で彼は前作と似ても似つかぬコメディリリーフとなった。前作の、屈強で利発な彼を愛するものは、それを手酷く非難した。

しかし私はそれを彼の罪の代償だと思った。

彼は確かに強かった。フィジカルもメンタルも強かった。しかし嗤いながら人を殺した。例え仕事だとしても、その行為を楽しんでいたことは否めない。

だから、組織のエリートだった彼が、続編でルンペンとして、コメディリリーフの立場を与えられたとき、彼は罰を受けたと思った。

ZZの主人公に手酷く非難されたときも、盗みをして食べていかなければならなかったときも、エリート組織にいた頃には想像もつかない武器で闘ったときも、それは当然のことだと思った。

何故なら彼は人の命を奪ったから。何人もの命を奪ったから。

彼の職業は兵士であり、その環境は戦時下にあった。だからやむをえない事だったのかも知れない。しかし、彼のいた組織は(主要キャラクターに限るが)すべて前作で死を迎えていた。唯一、生き残ったそのバイタリティ。だけどやっぱり、彼には罰が必要だと思った。死に匹敵する罰。見知らぬ土地で、明日をも知れぬ身を生きる罰。しかし彼は生命力の塊だから、きっとその罰も乗り越えていけると思う。実際、作中で新たな相棒(ゲモン・バジャック)を見つけ、短い仲にも関わらずその身を案じている。再び死に直面しても、持ち前の機転でまた生き残った。

それほどまでに彼は強い。だから罰が必要だ。

最近、関連作品の中で、彼が件の状況を脱し、過去を捨てて名前を捨てて、再びエースパイロットとして復活を遂げるエピソードを目にした。彼は禊を終えたのだろうか。そして再び、強者として人を殺すのだろうか。その光景を、私は複雑極まりない心境で眺めるしかない。

強い彼をただ純粋に愛したかった。

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