自己肯定感は重要だけど、低くてもいいと思うよ

ツイッターのトレンドに自己肯定感というのが上がっていて、理由はよくわかりませんが、なんだか今日はみんなが自己肯定感について考えている日なのだなと思いました。

そこで私もちょっと日頃思っていることを呟きましたが、でもやや言葉足らずな感もあるし、 長くツイートするのも迷惑なのでnoteにまとめておこうと思いました。こういう自己啓発っぽいこと書くためにnote始めたわけだし。

そもそも自己肯定感ってなに?

先に用語を整理しておかないとお話にならないので、自己肯定感とは何かということを参照しておきたいですね。自己肯定感に似た、あるいは関連する用語というのはめちゃくちゃたくさんあり、混乱するのが当たり前であって、自己肯定感とはこれだ!とズバリあっさり言い切れる人は専門家でもない限り信用ならないような気がします。私は専門家じゃないんで少し調べることにしました。具体的には、「自己肯定感」「自尊心」「自尊感情」「自己効力感」あたりがよく使われかつ非常によく似ています。この辺の使い分けは、すぐ読めるところだと「子どもの自尊感情・自己肯定感等についての定義および尺度に関する文献検討:肢体不自由児を対象とした予備的調査も含めて」(田島・奥住,2013)に書いてあります。

まずわかるのは、自尊心や自尊感情は概ねSelf-Esteemの訳語だということ、そして自己肯定感や自己効力感はそうではないということです。しかし一方で、自己肯定感と自尊心の違いはあまり明瞭ではないともしています。

では自己肯定感とは何かというのは、提唱者である高垣忠一郎先生という人の本を読めばわかるようなのですが、すぐ読めるところだと、「私の心理臨床実践と「自己肯定感」」(高垣,2009)を読めば良さそうです。

それによると、"「自分は自分であって大丈夫」という感覚を、筆者は「自己肯定感と呼んできた"のであり、それは"弱点もダメなところも含めてここに存在する自分を承認され,肯定される"ということであり、それこそが"存在レベルで自己を肯定する"ということです。そして乳児期の親とのやりとりが自己肯定感を育むことを示し、また、「自己肯定感」を築けるよう援助するのが援助者の要諦だとしています。この高垣の論文を読むと、

若者が機械やモノのごとく扱われるところでは,若者は自分の部分への否定によってまるごとの自分が否定されるかのような経験をする。自分の存在そのものを否定されるような経験である。こうした経験は,もしその若者がまるごとの自分の存在そのものを承認され肯定される場(外的には「居場所」,内的には「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感)によって存在を支えられて いなければ,致命的な自尊心の傷つきになる。

というような文章が見られ、明らかに自己肯定感と自尊心は別次元の概念として用いられています。個人的には、自己肯定感が「内的な場」であるというのが興味深く感じました。

この用語の整理の話は本当に混み入っている上に本題ではないのでこの辺にしますが、ポイントは、「ダメなところも含めて存在を肯定する」なのであろうと、私は読み取りました。

自己肯定感の高め方

高垣論文でも繰り返し懸念されていますが、自己肯定感の低い人はたくさんいます。というか、だから自己肯定感なんてワードがトレンドに乗るんですよね。みんなが自己肯定感高かったら、そもそもそんなこと気にしないでしょう。

しかしそれにしても、「自分がダメなのは自己肯定感の低いせい」というような意識があるのではないかと思いますが、非常にパラドクシカルな感じ方ですよね。そう思いませんか。私は、自分で意識的に自己肯定感を高めようとするのは根本的に破綻してる、と思うんですよね。自己肯定感の低い人が、「自己肯定感が低いがために自分は価値のない人間なのだ」と感じるので、それを治したくて、自己肯定感を高めたいんでしょうけど、原動力が自己否定的な考え方に思えますし、それで自己肯定感は本当に高まるのだろうか。

そもそも普通はどういう過程で自己肯定感を高めていくかというと、高垣論文によれば、

赤ん坊が泣く。そのとき,わたしたちは,「うるさいから黙れ!」とは言わない。その「泣き」が 何を意味しているのかを理解しようとし,また理解して「そうか,よし,よし,おしめが濡れたのか, よし,よし,いまおしめをかえてやるからな」という風に向き合う。その時,私たちは「小便などして,ほんまにダメなやつだ!」とはいわない。「よし,よし」だ。その「よし,よし」は「おまえ はオシッコが出きる立派な子だ」という評価の「よし,よし」ではない。「おしめが濡れたのだね, わかった,わかった」の「よし,よし」だし,「かまわないよ,大丈夫だよ」という「よしよし」だ。
それは相手の訴えをしっかり受けとめ,理解したという「よし,よし」だし,それでいいのだよという赦しの「よし,よし」である。筆者の言う「自分が自分であって大丈夫」の自己肯定感の「肯定」はこの理解と赦しの「よし,よし」であって,評価の「よし」ではない。
理解と赦しの「よし,よし」は存在そのものを肯定する。迷惑を掛ける存在だけど,存在していていいのだよと。

という調子です。赤ちゃんがひとりでに自己肯定感を獲得していくわけではありません。無条件に存在を肯定する他者の存在(たいていは親)が、赤ちゃんの自己肯定感の育ちにとって必要なものです。自己肯定感という内的なものの育ちは、外的な環境とセットになります。

しかし、赤ちゃんはそれでいいのですが、残念ながら本邦には自己肯定感の低い大人がたくさんいて、今私たちが話題にしているのはそっちの方です。どうにかして、みんなに自己肯定感を高めてもらいたいところですけど、自己肯定感の低い大人たちの自己肯定感を高めるには、どうしたらいいんでしょうかね。自己肯定感の低い大人がいたときに、周りの誰が無条件に存在を肯定すればいいのでしょう?あるいは、誰の自己肯定感を高めたらいいのでしょう?

恋人・配偶者は親じゃない

恋バナとかを聞いていて、いつもとてもやきもきすることがあります。

それは、「自分の悪いところも含めて認めてくれる優しい恋人」の話をすることです。怖いなー、と思ってしまいます。

そういう恋人に憧れる人は、きっと自己肯定感が低いのだろうと思うし、自己肯定感が低ければ恋人を源泉にして自己肯定感を高めていきたいというのは、よくわかります。

でも、当然ですけど、対等な関係でいるためには、恋人が「自分の悪いところも含めて認めてくれる」のであれば、自分も「恋人の悪いところも含めて認める」必要があります。悪いところも含めて認めるというのは、何があろうと絶対に見捨てないということです。

私は、その相互に無条件に認め合う関係が果たしてできますか、と覚悟を問うているわけではありません。そうではなくて、いざという時には見捨ててほしいと言いたいです。もしかすると、脳内お花畑な人たちからすると、何を言っておるんじゃと感じるかもしれません。しかし、恋人がDVに走るとしたらどうか。私は、DV被害に遭うくらいなら別れてほしいです。また、幸いにして人格高尚な人物と付き合っていたとしても、恋人にも職場などその他の人間関係があるのであって、必ず何か変化します。また、突発的に交通事故に遭って、高次脳機能障害になることもあります。そうした場合、驚くほど人格が変わることがあります。それはそれで魅力的な人物になるかもしれませんが、少なくとも、受傷以前と同じようなやり方で付き合うのは困難になりがちです。相手の思わぬ一面が見えたり、変化した時に、もし自分自身の生活が脅かされるようであれば、見捨てても構わない、それは仕方がないことだと思います。それができなくて、いつまでも捨てずにダラダラと付き合って、不幸になる必要なんてありません。これは恋人時代だけでなく、配偶者になっても同様です。別れるという選択肢は常にオプションとして持っていて良い、と私は思います。

また、そもそも対等な関係でない恋愛・結婚の方が多いかもしれません。その中で自己肯定感を相手に求めるのであれば、もはやそれは親代わりといった様相です。しかしですね、

恋人・配偶者は親ではない、恋愛・夫婦関係は親子関係ではないのです。

明らかに権力関係に差がある中で、相手に精神的に依存するような恋愛・夫婦関係なんて、ますますDVリスクの香りが満載です。自己肯定感が低いと自傷のような発想でそういうスリリングな恋愛を求めたくなるのもわからなくはないですが、やめてほしいです…。私はみんなの幸せを願っているので…やっぱそういうあからさまに危険なのは、推奨できない…

自己肯定感の低い人と恋人になるときに、この人を守ってあげたい!と思うかもしれないけど、その気持ちがDVの始まりですよね。

親、子ども、兄弟姉妹

血縁者はどうでしょうか。

自己肯定感の低い大人の親は、すでに高齢者です。そうした親に、新たに「すべて受け止める」ことを求めるのは現実的ではないと思います。それに、そもそもその年齢の親が「すべて受け止めている」状態って割と地獄絵図になりがちな気がします。

自己肯定感の低い大人に、子どもがいるときに、その子どもに「親の存在を無条件に肯定させる」のは概ね虐待になるかと思います。虐待とまでいかなくとも、いわゆる毒親ですか。本来子どもが親にすべてを受け止めてもらうのであって、その逆ではありません。子どもと親は宿命的に非対称的な関係なので、逆転するのは良くない。もちろん、自己肯定感の低い人は子どもを持つなという話ではありません。というか、自己肯定感の低い人は「自分は子どもを持つに値しないのに子どもを作ってしまって罪深い」などと内心思っているかもしれなくてその罪悪感がストレスになって余計に毒親化するかもしれないので、そういうことを言う人にはあなたが子どもを持つのは何にも悪いことじゃないと丁寧に伝えた方がいいかもしれませんね。

兄弟姉妹…特に仲の良い兄弟姉妹や双子などだと、もはや一心同体という感じで、互いが互いの居場所になることもあると思います。それはそれで自然なことのような気もするのですが、自分の人生を歩むことを優先するべきですし、そのためには兄弟姉妹の存在にイライラすることがあってもそれはそれで当然ですから、あまり美しき兄弟愛みたいなものを押し付けるのは好ましくないように思います。兄弟は他人の始まりというのは金言です。

小括:大人が恋人や血縁者を居場所にするのが危うい理由

これまでダメだダメだと否定的な話を繰り返して、タダでさえ自己肯定感が低いところに踏んだり蹴ったりと感じられる人がいるかもしれなくて申し訳ないのですが、自己肯定感が低い本人を責めようって話じゃないんですよ。周りの人的環境が合ってないという話であって。

大人の居場所としての恋人や血縁者の何が問題かというと、1つには、自己肯定感の低い人が何か失敗をやらかしたときに、存在を無条件に肯定するには当事者性が高すぎるということです。何かあったときに、気持ちだけじゃなく現実の被害として恋人や血縁者が困った事態に巻き込まれてしまいがちです。特に血縁者や配偶者は厳しい状況に陥ることも多く、たとえば損害賠償請求とか。そのような状況下で相手を受けとめよというのは酷すぎるかと思います。そしてもう1つには、密室性が高くなりがちで、事態のエスカレートを阻止できなくなったり、当事者性の高さと相まって、二人で一人のような関係になってしまう恐れがあります。

特に恋人などは、無限に近くになりたい、皮膚さえも邪魔な境界線だと感じるかもしれないしそれはそれで普通だとは思うのですが、やはり最低限の線引きは意識してほしいです。

大人の最適な居場所とは

だからと言って自己肯定感の低い大人には今更居場所を持たせられないと言いたいわけではありません。

問題なのは、当事者性の高さと密室性の高さであって、それらが低ければ好ましい居場所になり得ると思います。具体的には、医療や福祉などのいわゆる支援者と、親しすぎない友達の2つが、見捨てることなく関わり続けることのできる人的環境だと思います。

支援者は、ある意味当然です。それが仕事なんだから!対人援助職の基本原則であるバイスティックの7原則のうち、

統制された情緒的関与
援助者自身の感情を自覚的にコントロールして利用者に反応する
受容
利用者の「あるがまま」を受け入れる
非審判的態度
援助者の価値観によって利用者を非難しない

この3つが特に深く関わるのかなと思います。ただ、支援者というのはある程度のラインを越えてやばい状態に陥らないと関わるものでもないですし、誰にでも馴染みのあるものではないかもしれません。

親しすぎない友達っていうのは、似たことを言っている文章をまだ見つけられていなくて主に私のアイディアなのですが、親しすぎる友達よりも、むしろあまり親しくない友達の方が、無条件に相手の存在を認める上では条件として適しているのではないか、と思います。なんかとんでもないことを言い出したとしても、へーそうなんだで済みますから。理不尽な要求をされても要求内容自体は拒否できるし、何か人質を取られる恐れもありません。他の友達にさらに相談することもできる。友達と書きましたが、実質知り合いレベルということなので、地域の人ぐらいでも構わないかもしれない。

大人の「居場所」の弱み

医療や福祉などのいわゆる支援者と、親しすぎない友達の2つを挙げました。しかし、構造的にどうしても弱みを抱えてもいます。

まず、つながりが弱いということです。つながりが強すぎないことを基準に選んでいるのだから当たり前なのですが、でもそれはやはり弱みでもあります。なんの条件もなく繋がれている代わりに、何の条件もなくつながりが切れてしまう恐れがあります。必要な時に必要な援助ができない恐れがあります。痛し痒し。

次に、アドバイスできないということです。これも当たり前なのですよね。居場所というのはアドバイスする場所ではありません。でも本人としては何かの問題についてアドバイスを渇望していることもあるし、アドバイスに代わる適切な関わりをするだけの時間的充実も、先に述べたつながりの弱さがあるので期待できず、結果的に本人が明らかに相談すべきでない人(ヤクザとか)へ相談に流れてしまう恐れがあります。また、そうした焦りからか、ついついアドバイスしてしまって、居場所が崩壊したり、かえって問題を悪化させるかも知れません。メンヘラ傾向の人は基本的に「相談相手を選ぶのが病的に下手くそ」なので、私はそうした人が病んでいるのは精神じゃなく相談関係なのではないかとさえ思いますが、ともかく相談をどうするのかという問題は居場所とは別に考えないといけません。支援者の場合は、相談機関複数で連携して役割分担するとか、そういう感じが好ましいでしょうか。この辺の相談をどうするかということについては、「その後の不自由 「嵐」のあとを生きる人たち」(上岡・大嶋,2010)という薬物依存症の自助グループの本を参考にちょっと考えてみたのですが、自己肯定感とは少し違う問題だと思われるので、相談の話はこのくらいにします。ただ、これで一つわかるのは、重要なのは自己肯定感だけじゃないということです。

自己肯定感は低くてもいいよ

ここまで、本人よりもむしろ周囲の人間に焦点を当てて話をしてきました。でも多分この記事を読んでいる人はそもそも自己肯定感の低い本人なのではないか、と思うので、本人に対して私が言いたいことは、自己肯定感は低くてもいいよ、ということです。

自己肯定感は低くてもいいよ。低くてもいい。致命的なことじゃない。

自己肯定感の低い人は本当にわんさかいます。私も多分低いです。低いのが当たり前なのではないかと思うほどです。そう思いませんか。自己肯定感の高いやつなんて都市伝説なのではないか。そんなみんながみんな自己肯定感が低い状況で、自己肯定感の低いことがそんなやたらと悪いことであるはずがないですよ。もし悪いとしたらどんだけディストピアだよ日本。低くていい。大丈夫です。自己肯定感の低い人がたくさんいるということは、自己肯定感が低いことは致命的ではないということです。それで人間の価値が損なわれるほどのたいしたことではないんです、自己肯定感が低いことは。低いほうがいいと言ってるわけじゃないですよ。低くてもいいと言いたい。

それでも自己肯定感を高めたいと感じるのはわかります。それはよくわかります。自己肯定感を高めたいという気持ちはそれこそいかにも自己肯定感の低さのあらわれというかむしろ主症状という感じですが、そもそも自己肯定感が低くても大丈夫なので、自己肯定感を高めたいと思っていても大丈夫です。自己肯定感を高めたい、それも結構。大丈夫。

自分は自己肯定感が低いな・・・と思う時に、ありとあらゆる問題の原因を自己肯定感の低さに求めてしまうことがあります。それが自己肯定感の低い人にありがちな認知のあり方なのではないかと思います。確かに問題の背景には、自己肯定感の低さという根源的な課題があるかもしれません。しかし、そんな根源的なことを掘り返さずとも、実際は、大抵のことは自己肯定感とは全然関係ない表面的な理由を検討するだけでどうにかなるのではないですか。前日に寝るのが遅くて眠かったからとか、想定していた展開と違ったからとか。

自己肯定感の低さが気になるのはわかりますが、自己肯定感が低くても大丈夫なので、そういう根源的なことは「まあ自分は自己肯定感の低い人間なんだな」という落ち着いた理解のままでそれ以上広げずに置いといて、目の前の問題をその時の自分の状態から考えて問題解決していく。まぁ根本解決はしないのですが、べつに根本解決せんでも、人生80年かそこらですし、それぐらいはだましだましやり過ごせるのではないでしょうか。

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