低投票率をめぐる冒険

民主主義というのは最悪の政治形態だが、他の政治形態よりはマシである。と、チャーチルが言っていたような気がします。仕方ないから消去法で選ぶというのは、悲しいですけど、ありがちですよね。選挙で皆さんが候補者を選ぶ時も、仕方ない仕方ないと呟きながら選ぶことも結構あるだろうと思います。

そんな消極的な選挙の状況であれば、いっそ投票しないという人がたくさんいても意外ではありません。今日本では投票率が低いことが、特に若者の投票率の低さが問題視されています。選挙が近づいてくれば、必ず話題になる風物詩ですね。私の先輩も以下のような感じでめっちゃ怒ってました。

お前ら。選挙に行けよ。今後選挙に行かない人は絶対に自分の生活を世の中のせいとか政治が悪いとか言うなよ。どうしてもいけないなら不在者投票とか期日前とかあるんだよ。バカか?

皆さんは、どう思いますか。

私は、正直に言ってこの意見にかなり否定的です。ただ、個人的な知り合いの言葉を一つだけ取り上げましたが、単なる個人の意見にとどまらず割とよく見かける意見なので明確に文章で反論しておきたいと思いますし、選挙に関して今の時点での私の意見をメモしておくのは大切かなと思い、記事を書きました。

選挙スイッチ

さて、

自分の生活を世の中のせいとか政治が悪いとか言う

のは、生活上の問題の所在を社会に帰する考え方(社会モデル)だと言って良いと思います。

ですから、

今後選挙に行かない人は絶対に自分の生活を世の中のせいとか政治が悪いとか言うなよ。

というのは、「選挙に行く人は自分の生活上の問題の所在は社会にあると捉えて良い。しかし、選挙に行かない人はそのような捉え方をしてはいけない」という意味の文章だと理解して良いと思います。ここで、選挙に行かない人はどう考えることが許されるのかというと「自己責任のみ」(個人モデル)、という意味でしょう。つまり、「ある人が選挙に行ったかどうかで、その人の生活上の課題を社会責任で捉えるべきか個人の自己責任で捉えるべきかが変化する」ということです。

でもそれっておかしくないでしょうか。例えば、車椅子ユーザーたちが近所のお店にショッピングに出かけたいけど、エレベーターが整備されておらず困難だったとします。その時に、支援者が介入して、課題が解決されるよう取り組むとしましょう。この時に、利用者が選挙に行ったかどうかで支援をする上での考え方や手段に変化が生じるのでしょうか。「選挙行きました?」と聞くんでしょうか。いままさに困ってるということと、かつて選挙に行ったかどうかということに何の関係があるんですか?支援者がそういう利用者を選別するような考え方をしていたらそれはとても恐ろしいことです。そもそも有権者の半分ぐらいしか投票しない状況なので、選挙に行かない人は自分の生活は自己責任、なのであれば、日本人の半分は自己責任ということになってしまいます。それは福祉の理念の観点から言って受け入れられないと思います。

選挙に行ったかどうかというオンオフの「選挙スイッチ」が押されているかどうかで、その人の考え方に規制が生じたり社会が保障する権利の内容が変質するのはおかしなことだと思います。そもそも、選挙というのは、候補者から議員を選出する営みであって、有権者を選別する営みではありません。選挙に行かなかった人も、そのことを理由に、いかなる不利益も被るべきではありません。念の為憲法を参照しますと、

日本国憲法第15条第4項 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

と書いてあります。正しい内容だと思います。

政治は誰のためにあるのか

「若者が住みやすい社会にしてほしいんやったら政治家に「若者も投票に行ってるで〜」っていうのを見せつけたらなあかん」

という考え方を示しているのがせやろがいおじさんの動画です。

先輩の発言もこれに近いニュアンスである可能性もあります。

しかし、これもねぇ、こういう意見よく見かけますが、違和感を感じます。

確かに、政治家の残念な習性として、自分に投票してくれる人のために行動しがちであるということはあると思います。しかし「議会=利益代表者による利害調整の場」だという前提で話が進むのであれば、それはとても悲しくなります。それでは自然とマイノリティは置いてけぼりになります。日本に数万人とか数千人程度しかいないようなマイノリティの人は、どうやって「自分たちが住みやすい社会にしてほしいので政治家に「投票に行ってるで〜」っていうのを見せつける」ことができるんでしょうか?そのような数の力で押して自分たちの意見を反映させる作戦は数の多い集団にしかできません。そのようなゲームのルールの組み立て自体がマイノリティにとって不利なので、その枠組みに乗っかるのやめてほしいです。そもそも若者が仮に全員投票に行ったところで、やっぱり数では高齢者に負けてしまうので、若者の利益を図るための戦略としても間違っていると思います。

政治家も舐められたものだなと思いますが、やはりここも憲法を引いておくと、

日本国憲法第15条第2項 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

若者が投票に来るという理由で若者のための政策を振興するような政治家はそもそも信用できません

自分に投票した人、投票しなかった人、そもそも選挙にこなかった人、男性、女性、高齢者、若者、富裕層、貧困層、中間層、そんな全ての国民のために行動できる人こそが国会議員としての資質があるのであって、私たちが見極めなければいけないのはそこじゃないんですか?ということを打ち出していく方が正論かつ現実のプラスにも繋がるのではないですか。

自分の不都合を選挙に行かなかった人のせいにしないで

あとこれは先輩が言っていることではないので深入りしませんが、「選挙に行かない人が多いから社会が良くならなくて迷惑」とか考えちゃう人が居ますけど、それは完全に八つ当たりです。もちろん自分の支持している陣営の対立陣営のせいにするのも論外です。

選挙を通じた正当性こそ民主主義の生命線

ここまであれこれ書いてきましたが、全体としての投票率が低いことや、投票率の高い集団と低い集団に大きな差があることはもちろん問題だと思います。

そもそも日本の民主主義社会における国政というものは主権者である国民の信託を受けた国会議員が集まって国を運営していくというものであって、本当に国民の信託を受けていると言えなければ、国民に由来する権威を負っていることにもなりません。もちろん正しい手続きで選挙が行われなければ正統的ではありませんし、投票率が40%の選挙で招集された議会と、投票率が70%の選挙で招集された議会とではその正当性に差があると考えるのは当たり前だと思います。また、投票率の高い集団と低い集団に大きな差がある場合、ある程度全体の投票率を確保できていたとしても、議会が国民全体の意見の縮図になっているとは言えなくなってしまいます。そうした偏った構成の議会に大義があるかは疑問です。

選挙を通じて獲得する正当性こそ民主主義の生命線だと思います。

日本は一応民主主義国家ということになっているので、その辺の正当性は主張できるような投票状況は確保しないといけないと思います。

終わりに

現在の投票率の状況は満足すべきものではなく、投票率は上がった方がいいでしょう。それはそうです。投票行動をしない人には、なんらかの選挙に行かない理由があるのだと考えられます。本当に投票率を上げたければ、その選挙に行かない理由を解決すればいいだけです。政治に関心が持ちづらいとか、休みが取りづらいとか、投票所が行きにくいとか、投票しに行くと近所の人に会うのが嫌とか、いろいろ考えられますが、そうした課題は選挙に行かないというその本人に介入せずとも、社会状況さえ変えれば自然と行けるようになる性質の課題ではありませんか?まあ、東浩紀みたいに選挙のボイコットを呼びかけるタイプの人は、より積極的な理由で選挙に行かないことを選択していると思うので、またそれとは違うかもしれませんが。

選挙に行かない人たちを攻撃や説教したところでますます投票しなくなるだけではないでしょうか。せやろがいおじさんもそういうことを言っていますが、せやろがいおじさんの場合説教ではなくうまい喩えで説得しようみたいな感じで、マシだとはおもうけど五十歩百歩だとも思います。

そもそもなぜ人は攻撃や説教や説得をするのでしょうか。イライラしていて、その気持ちをポリコレ棒を使って発散したいからではないでしょうか。そして同じタイプのポリコレ棒を握っている仲間と共感し合いたいからではないでしょうか。「バカか?」と言い放てる場所に立つことができたのでこれ幸いと言い放っているのではないですか。少なくとも今この記事を書いている私はそうです。相手の行動を変容させて根本解決したかったら説教するのではなく、環境構成に介入した方が建設的ですが、自分が一時的にスッキリしたいだけなら説教した方が早い。その辺をうまく使い分けてストレスに対処していきたいですね!

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