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一人一推しの時代、私はあえて何も推さない

先日友人と祭りを歩いたのだが、その時少しだけ彼女と「推し」の話をした。彼女にもついに推しができたらしい。旧ジャニーズのアイドルグループのメンバーを、母親と一緒に推していると語っていた。
「へぇ〜いいじゃん!」…そう言った。それだけしか言えなかった。
なぜなら、私には推しがいないし、私の脳内には「誰か・何かを推す」という概念が存在しないからだ。だから、推しがいる人の気持ちがわからない。


推しってそもそも何じゃらホイ

「推す」という言葉の本来の意味は、何かを薦める、のようなもので、例えばスーパーで呼び込みくんを置いて「いらっしゃいませー、よってらっしゃい見てらっしゃい!ついでに買ってらっしゃい!本日のイチオシ商品はこちら!…」みたいな感じで使う。
それらが転じたんだろう、ウィキペディアにはこの言葉が広まる経緯が書いてある。

元々は、アイドルグループの中で最も好感を持っている人物である推しメン(おしメン)を由来とする言葉である。「推しメン」という言葉は、1980年代のアイドルブームの際に登場し、その後、2000年ごろになると2ちゃんねる(現・5ちゃんねる)でモーニング娘。のファンによって使われるようになった。その後、AKB48の台頭によって広まり、2011年にユーキャンの新語・流行語大賞にノミネート(No.09)された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E3%81%97

アイドルとはいつも時代と共にあるもの。人々はそれに熱中し、時に他人と良さを分かち合い、そのうち自分にとっての推しを作る。
このような現代の推しの定義の原型は、すでに80年代の時点で完成されていたのだ。
その後「推し」という言葉がじわじわと広まり、アイドルだけではない、あらゆる事柄に使われるようになった。
最近の若者は例えば「ブラック校則・企業」とか「同調圧力(的なもの)」とかでかなり生きづらさを感じているだろう。まったく、世知辛い世の中になったもんだ。それらから逃げる、現実逃避のような手段で皆が推しを持つようになったのかも、と根拠のない憶測を巡らせてみる。


自分の趣味・嗜好と照らし合わせてみる

例えば私は特撮、特にスーパー戦隊をよく視聴するのだが、今まで何作か見てきた中で、一人も「推し」がいなかった。
「あっ、このキャラクタは作品においてとても良い成分になっているな」とか、「この俳優は演技が上手いぞ」とか、そう思うことはあっても、「このキャラクター(俳優)がすんごく好きで!推しまくっています!」みたいにはならない。
他にも、好きなアーティストが数名いるのだが、そのいずれも「あくまで曲が好き」で、アーティスト自体(人間)を評価したり気に入ったりすることはない。

…なんで?

まず、私は他人の感情に干渉することが得意ではない。人と話している時も、感情を読み取って反応したりすることができないため「ふーん」「へー」「そうなんだ」「なるほど」としか言えない。これらが影響するのは、例えばドラマをみてキャラクタが夢を叶えた!みたいな状況で、「良かったねーーーーー!!!!!」とはならず、「ほーん、そういう事実だね」という思考になる。
あと、言葉ではない、行動から感情を察することもどうも苦手だ。だから「?」となることも多いし、キャラクタに魅力を感じることができない。
おそらくこれらの自分自身の脳みその働きが影響しているだろう。ドラマ、漫画、アニメを見るのも苦手、音楽は作ったり歌ったりしている人間ではなく曲や歌を重視してしまう、もうどこから切り取っても推しを作りづらい状況にある。
だからいくら頑張っても推しを作れないともう諦めているし、作ったとしても長続きしないだろう。
だから、私はあえて無理して何かを推さないことにした。

でも、推しを全力で推すことはいいことだと思っている。自分にとってのお気に入りがあって、それを他人に教えたり密かに応援したり、十人十色といったところだ。
でも、推しがいない、推さないという選択肢もまた良いことだと思う。結局は人の趣味はその人の個人の領域の、とても大切なものだ。


ジャニーズ推しの彼女のことも、応援してあげよう。

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