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踏襲と対比の美しさから考察する【オイサラバエル】樋口円香

 いやはや、見事にぶん投げられましたよ。

 ということで、この記事では【オイサラバエル】樋口円香について考察していこうと思います。よろしくどうぞ。

※この考察では【オイサラバエル】を含む樋口円香が登場する多くのコミュのネタバレを含みます。予めご了承ください。


前書き

 この考察は少し長くなるため、先に結論付近の話をしたいと思います。
 まずは下のスクショをご覧ください。

 これは今回のTrue END『美しいもの』の終盤にて流れる円香のモノローグなのですが、このTrue ENDの終盤にて画面が明転し、二行のモノローグが流れるという状況、どこか見覚えがありませんか?

(【ピトス・エルピス】True END『gem』)

 そう、【ピトス・エルピス】の最後のシーンです。

 この明転という表現手法は【ピトス・エルピス】において物語の根幹に関わる重要な部分であり、そこで流れたモノローグも同じく重要な意味を持つわけですが、今回、またしてもTrue ENDにて同じ手法が取られたのは何かしらの意味があると考えられそうですよね?


 これに関連する話が今回の私服ボイスです。

 私服ボイスは基本的にそのカードのコミュを踏まえたものなのですが、今回採用された『枯れる』『目を閉じる』以外のセリフは【オイサラバエル】には登場しない、つまり関連のないものになっています。

 ですが、私達は『錆びる』『引き裂かれる』『知ってる』『わかってる』という言葉をどこかで見たことがあるはずです。
 それもコミュの最終話の終盤暗転した画面でのモノローグという形で。

(【ピトス・エルピス】True END『gem』)
(【ギンコ・ビローバ】True END『銀』)
(【UNTITLED】最終話『部屋』)

 明転と同様に、この暗転するという表現方法もそれぞれのコミュにおいて物語の根幹に関わる重要な部分であり、そこで流れたモノローグも同じく重要な意味を持つわけですが、それをわざわざ無関係であるはずの【オイサラバエル】の私服ボイスに採用したのは何かしらの意味があると考えられそうですよね?


 ということで、この記事ではこういった表現や状況の踏襲(あるいは対比)という切り口から【オイサラバエル】がどのような立ち位置の物語だったのかについて考察していきます。

 そして、その考察を元に【オイサラバエル】の例のモノローグがどういった意味だったのかについても考えていきます。

(【オイサラバエル】True END『美しいもの』)

 どうぞよしなに。



1話『序』/欠けていること

【シナリオ概要】
 『時間を巡る旅』という連載企画に抜擢された円香は、その撮影のため、シャニPと山奥の美術館に訪れた。
 撮影までの時間潰しとして、シャニPはミロのヴィーナスに関する話をする。

 基本的にシャニマスの1話はイントロダクションとしての色合いが強いものであり、今回の場合は【オイサラバエル】が美しいものの話であるということが示されています。

 それがわかりやすく提示されているのが選択肢後のコミュです。
 ここでは選んだ選択肢によって、これまでの雑談の総括 or 次の雑談の内容についてシャニPと円香が議論することになるのですが、どちらの議題も最終的には『美しいものの話』という結論に辿り着きます。

(上から左、中央、右の選択肢での結論)

 そしてその結論通り、1話『序』に限らず【オイサラバエル】の全てのコミュは『美しいもの』が中核に据えられた上で話が展開されます

 ちなみにガシャ演出でも『これは、美しいものの話』と前置きされています。

(こちらではシャニPではなく円香が口にする)



 さて、選択肢以降のコミュが【オイサラバエル】が『美しいものの話である』ということを提示しているのであれば、選択肢以前のコミュは一体何を示しているのでしょうか?

 その答えは美しさの指標です。

 美しいものの話をするにあたって、その判断基準を明確にしているわけですね。
 だからこそ、シャニPにミロのヴィーナスの話(欠けた部分があるからこそ美しい)をさせているわけです。

(ミロのヴィーナスは両腕が無いから美しいとされる)

 欠けたものを美しいと捉える感性は【ピトス・エルピス】やLanding Pointにおいても提示されているもので、今回はミロのヴィーナスを例に挙げて語られたわけですが、円香はこれを思い出という実例でもって噛み砕いています。

 記憶の中では、いつまでも活躍していた頃のまま、もしくは活躍していた頃よりも美化される。
 つまり、目に見えない(それ以降の情報が欠けている)からこそ完璧になるのだと。


 ところで、シャニPは「欠けたものは美しい」と語ったわけですが、とは言え美しさの基準は欠けていることだけではないのです。

 円香が指摘したように、黄金比であるということもミロのヴィーナスを美しく感じる要因なのですから。
 当然ですが美しさの指標は一つではないのです。

 だからこそ、ここでは『円香が黄金比について指摘した』という本来であれば必要のない描写がされているわけですね。

(黄金比に関連するものはこの一文だけであり、これが無くても会話は成立する


 さて、次のコミュを考察する前に一つだけ触れておかねばならないことがあります。
 それは、このコミュにてある登場人物と我々が先入観をもってして欠けた情報を補ってしまい、とある勘違いをしてしまってたということです。

 これが後々あることを難解にする要因なのですが、そのことについて語るにはまだ必要な情報が足りていません。
 それ故、詳細については後述することにします。
 なので、今はそういうミスリードがあったのだということだけ把握しておいてください。



2話『廃墟、エントロピー』/終わっていること

【シナリオ概要】
 撮影の直前、円香は監督からある話をされた。
 円香は彼の言葉を理解することはできなかったが、撮影開始の時間が差し迫っていたため「わかります」と答えてしまう。

 ここでは美しさの新たな指標として終わることが監督から提示され、その実例として水たまり(+廃墟)を挙げられることになります。
 どろどろで底が見えない(不透明)ことが綺麗なのだと。

 円香はそれを理解できないままに『わかります』と答えてしまい、監督から『理解してくれる子』と評価されるのですが、この構図は見えない部分を補完する事で本来のそれよりも美しく見えるという『欠けていること』の美しさと同じ構図であると言えます。

 円香の感性がどのようなものかを理解していない(情報が欠けている)監督は、その欠けた部分を彼女の発言で補完しまい、結果、円香を過大評価してしまったわけですね。

 それに対してシャニPは、『円香はわかったのか?』と彼女に改めて質問をしています。
 つまりシャニPには理解しているように見えなかったということで、シャニP目線では情報の補完がされなかったわけです。

 この見る人の視点によって見え方が変わるという現象は、それぞれが持っている情報量(エントロピー)の違いが原因であり、同時に同じものを見た人間同士でも感じるもの/感じられないものに差が出てしまうということを示しています。
 これは視点が重要視される今回のコミュにおいて非常に重要な要素です。



選択肢:……すぐ戻る

 ここでは、以下のように廃墟を見てその過去の姿を想像してしまう自分を円香自身が妬ましく感じているということが語られます。

この場所のことなど 何も知らないのに
かつてはにぎやかな声、ひとびとの希望が溢れていたのだろう
未来が輝いていたのだろうと 勝手な想像をする
そういう自分が 疎ましい

 さて、では何故円香はそのことを疎ましいと感じるのでしょうか
 その答えはもう一つの選択肢にあります。


選択肢:……奥には行くなよ

目を閉じて この建物の始まりを見る
終わるために始まったわけじゃない
それでも 終わる

私は未来を知っている

 この『未来を知っている』という言葉のさすところは、円香が想像した建物の始まり(過去)に対する廃墟(未来)を知っているということでしょう。

 これは『私は未来を知っている』という、何の未来であるかという対象を示す言葉を使わない形で表現している代わりに、この言葉の直前に廃墟(建物の始まり/過去から見た未来)の背景が差し込まれることからも明らかです。

 このことを踏まえると、円香が過去を想像する自分を疎ましいと感じるのは『かつてはにぎやかな声、ひとびとの希望が溢れていた』『未来が輝いていた』にも関わらず終わってしまったという現実を考えてしまうからだと考えられます。

 輝かしい未来があった頃を想像して「そんな場所もいつかは廃墟と化すんだよなぁ」と考えてしてしまう自分を軽蔑、あるいは自嘲して、疎ましいと感じるのではないかと。


 少し話を戻します。
 今回『私は未来を知っている』という意図的に対象を排した表現がされていたわけですが、これは対象を制限する必要がないからと考えることもできます。

 というのも、このコミュにおいて『未来』とは『時間軸』だけでなく『終わり』を示す言葉であり(建物の未来=廃墟になること/終わること)、円香及び我々はどんなものにも死という終わりがあるということを一般的な知識として知っています
 このコミュ風に言えば『私は万物が老いさらばえる(オイサラバエル)未来を知っている』わけですね。

 だからこそ、対象を制限する必要がないのです。

【補足】
 先程、コミュタイトルになぞらえて『情報量(エントロピー)』なんて書きましたが、どちらかといえば『不可逆性(エントロピー)』的な意味合いの方が強いのではないかと考えています。
 時間経過による不可逆な変化という意味で。

 老いさらばえた人間は若返らないように、廃墟は建てられた頃の姿には戻らないわけですから。


 さて、円香は過去の視点からその未来(終わってしまったという現在)を知っていると語ったわけですが、そんな彼女は終わっていない現在を見た時、終わってしまう未来を考えてしまうのではないでしょうか?

 言い換えると、このコミュでは現在→過去→現在と視点が動いたわけですが、未来を知っているのであれば、現在→未来→現在と視点が移動することもあるのではないでしょうか?

 ということで、必要最低限の情報が出揃いました!
 ここからが楽しい楽しい考察のお時間です!



3話『ドライフラワー』/終わらないこと

【シナリオ概要】
 コラムの撮影のため、円香はドライフラワーのショップに赴いた。
 そこで彼女はドライフラーに関するインタビューを受けることになる。

 このコミュは、円香の美しさの指標が垣間見えるコミュになっています。

 上の会話はインタビューでの一幕なのですが『終わるからこそ咲いている時を大切に思える』という発言から、先述した通り円香は、現在(花)を見た時、未来という終わり(枯れる)を考えてしまうということが確認できます。

 だからこそ、円香は終わったものの美しさを理解できないわけですね。

 終わらないように努力する円香と、終わったものが美しいとする監督とでは考え方が根本的に違っていたわけです。


 それを裏付けるものに【カラカラカラ】があります。

 さて、今更ではありますが、2話『廃墟、エントロピー』にてわざわざ『廃墟』『始まりを思う』といった【カラカラカラ】のボイスとリンクする表現を使っていたのは何故でしょうか?

 それは互いのコミュにて描かれている物事の中核が近しい、あるいは重なる部分があるからでしょう。
 今回の場合は、終わるという部分ですね。

 それを裏付けるのが、【カラカラカラ】にてカードイラストが挿入される直前の言葉です。

(【カラカラカラ】4話『手すりの錆』)

 シャニPは円香がアイドルを続けてくれている理由を、透たち幼馴染と一緒にいられるからだと見抜きます。

 ずっと続くということは、終わりがないということ。続けている間は終わらないということ。
 そして終わらせたくないということを指摘された円香は、廃墟(輝かしい未来があったにも関わらず終わったもの)に目を向けるわけです。
 それに何を重ねたのかは言うまでもないでしょう。

 始まりのあるものは全て終わるけれど、それでも円香は続けていたいのです。


 ところで、終わっていないものを大切に思うからこそ、終わったものの美しさを理解できない円香はドライフラワーをどのように捉えているのでしょうか?

 生花としての本来の姿をしていないそれを、カラカラになってしまったそれを、彼女は終わっていないと、美しいと捉えるのでしょうか?

 インタビューにて、円香はドライフラワーを『枯らしたものとは違う』『驚いた』と評しますが、決して「美しい」やそれに類する言葉を口にしていません。

 そして、ドライフラワーを綺麗だと言うシャニPに対して『本当に?』と心の中で疑問を呈しています。

 極め付けはドライフラワーを作るコツを語る際『吊るす』という言葉が登場するのと同時に画面が突如暗転することでしょう。
 暗転という表現は、状態が悪い方向に転換することの表現手法でもあります
 吊るされ、暗転することによって表現されるものが何であるのかについては明言を避けますが、つまるところ、円香にとってドライフラワーは生花として終わった状態なわけですね。

 それ故、円香はドライフラワーを美しいとは思わないわけです。彼女は終わった存在を美しいとは思わないのですから。

 ガシャ演出にて、生花とドライフラワーのライティングや彩度が明らかに違う(生花の方が色鮮やかで美しい)のは円香のそういった感性(視点と言い換えてもよい)を反映、強調しているのでしょう。

(円香は生花を美しいと思えるがドライフラワーを美しいとは思えない)

 ところで、ドライフラワーの制作過程にあった『鮮やかな瞬間に吊るす(終わらせる)』という言葉、どこか既視感はないでしょうか?

 そう、1話にて円香が挙げた実例ですね。

 先程、他と重なる表現を使用する理由について『互いのコミュにて描かれている物事の中核が近しい、あるいは重なる部分があるから』だと述べましたが、欠けたものと終わるものの実例が重なるということは、これらは彼女にとって美しいと思えないという意味で同等ということですね。



4話『ノンフィニート』/無形であること

【シナリオ概要】
『時間を巡る旅』の連載も残すところ数回となった。
 シャニPは連載が終わってしまうことを嘆くのだが、円香はそんなシャニPを訝しげに見つめる。

 連載が終わることを残念に思うシャニPに対し、円香は彼の言葉の真偽を疑います。
 これはシャニPが欠けることと終わることの美しさに理解を示しているのにも関わらず、コラムが終わってしまうことを残念に感じていると言ったからでしょう。

 円香としては終わっていないものを大切にするからこそ、終わったものや欠けているものの美しさが理解できないわけですから、それらを両立させている(欠けたものであるミロのヴィーナスを美しいとするが、連載が終わってしまうことを残念がる)シャニPに矛盾を感じてるわけですね。


 さて、ここでようやく1話『序』の考察の最後に書いた、我々及び円香が陥った勘違い、つまりミスリードの話が登場します。

 実のところシャニPは、欠けた部分を補うことで魅力を感じるということが「自分の話である」なんてことは一言も言っていないのです。

 確かに彼は欠けたものを美しいと捉える人間ですが、彼が1話にて説明していた欠けたものを美しく感じる理由とは芸術における一般的な知識であり、彼自身の感性の話ではありません

(『らしい』という伝聞に用いる表現を使うシャニP)

 では何故、我々や円香はシャニP自身の感性の話だと勘違いしてしまったのでしょう?

 一番の理由は、説明の途中にスタッフとの会話が挟まってしまったために『ということらしいよ』という言葉がどこに対してのものなのか不明瞭になってしまったことでしょう。

 一見、『ということらしいよ』という言葉は撮影が始まることを指しているように見えますが、円香はスタッフに対してしっかりと返事を返しています
 つまり、シャニPから伝聞という形で伝えられる必要性は基本的にはないのです。

 であれば、この『ということらしいよ』という言葉は宙ぶらりんになってしまった話の尻を無理やり引っ張ってきたと考えるのが自然でしょう。

× まもなく撮影を始めますので! ──ということらしいよ

○完璧になる ──ということらしいよ


 我々や円香が勘違いしてしまったもう一つの理由は、【ピトス・エルピス】あるいはLanding Pointを経験していたことです。

 つまり、【オイサラバエル】直前にシャニPが欠けたものも愛する人間であると知ってしまったがために、欠けたものが美しく感じる理由を説明している彼の姿を見て、それが彼自身の話だと錯覚してしまったわけです


 シャニPが欠けたものを愛するということが過去のコミュで重要な要素だったというのも勘違いを加速させた要因でしょう。

 わかりやすい例を挙げるなら、1話に登場した『ひとりひとりの心の中』という言葉でしょうか。
 というのも、この言葉が登場した時、皆さんはLanding Pointのことを思い出したのではないでしょうか。

(左:LP編 最終話『color』 右:【オイサラバエル】1話『序』)

 そして、これがLanding Pointで重要な表現であり、その言葉が今回のコミュで使いまわされている以上、何かしらの関連があるのではと考えたはずです。
 だからこそ、受け取り手が欠けた部分を補うということがリンクしているのに気付いた時「やっぱりな」と思ったのではないでしょうか?

 つまり我々や円香は文章的なギミックと先入観を利用され、まんまとシャニPが欠けた部分を補うことで美しいと感じる人間だとミスリードさせられていたのです。


 さて、我々と同じくミスリードに引っかかった彼女は、その勘違いに振り回されながらもある結論に辿り着きます。

 それは、シャニPはあるがままの姿を見ているということです。

 そのままを愛し、過去ではなく今を見るということは、

 欠けた部分を想像したり、終わってしまった結果や、終わってしまういつかを見据えることで美しさを感じるのではなく、あるがままの形だけを見ているということあり、

 過去を想像したり、過去から現在の結果を思ったり、現在からいつかの未来を見据えるのではなく、今現在だけを見ているということです。

 だからこそ、彼は終わったものも終わっていないものも平等に美しいと評する。
 つまり、終わったかどうかという時間軸に縛られずに美しさを評価しているのだと円香は考えたわけですね。



選択肢:もう日が暮れるな/……あ、待ってくれ

 ここでは、円香にとっての美しいもの指標がモノローグという形で示されます。

 このままだと少しわかりづらいですが、これらは同じもの(円香にとっての美しいもの指標)を示しているため、お互いの欠けた部分を補完しあえます。
 つまり、下に示すような文章にできるわけです。

 目に見えるもの/形があるものは極まったところで落ちていく。
 とはいえ、ドライフラワーのようにその瞬間を切り取ったものを美しいと私は言えない。
 ただ、形がないものなら時間にとらわれることがない。
 だから結局、どこまでも見えないもの/形がないものこそがきっと美しいものだ。

※ここでドライフラワーが例として登場する理由は『枯れたものは枯れたもの』という言葉が、そもそもドライフラワーに対するものだったため。

 さて、ようやく円香にとっての美しさの指標が定義できそうです。
 終わらせたくない円香は、物理的な終わりが来ない無形であるものが美しいと、つまり見えないものこそが美しいと感じるわけですね。

 ですが、この表現は正確と言えるのでしょうか?



選択肢:荷物、持つよ

 このコミュではシャニPが円香の荷物を代わりに持とうとするのですが、あえなく断られてしまいます。
 しかし、彼は引き下がることもなくダメ押しとばかりに『重たい荷物を持つのが好きなんだ』と明らかに建前であるとわかることを言うわけですが、円香の反応は、、

(結局荷物は持たせてもらえなかったシャニP)

 ここで注目したいのは、その後の円香のモノローグです。

 このモノローグは【ギンコ・ビローバ】のあのセリフ『ぐちゃぐちゃに引き裂かれてしまえばいいのに』に近しいものでしょう。

 私はあのセリフを円香はプロデューサーという好青年の肩書きがない(スーツが引き裂かれた)シャニPを見たいということだと解釈しています。

(必要最低限の要素だけ抜き出すとこんな感じ)

 彼の信用ならない外面の奥に隠されているものを、彼の本質を見たいのだと。

 だからこそ、円香はシャニPに荷物を預けることはしなかったわけです。


 さて、見えないものを良しとするはずの円香は、シャニPの実像が掴めない/本質が見えないということに対してはあまり良い印象を覚えないということがわかりました。

 であれば『見えないものが美しい』という表現は、円香の美しさの指標としては不十分あるいは正確ではないわけです。

 まぁそもそもの話、2話にて円香自身が『どろどろで底(奥)が見えない水たまり』の美しさを理解できていなかったわけですしね。



True END『美しいもの』/透明であること

 このコミュはTrue ENDであるがゆえに回収することが多いのですが、だからこそ、まずは核心である円香の美しさの指標について触れていきたいと思います。

 円香の美しさの指標の一つは透明です。

 もう少し詳しく言うと、物理的に見えないものでありつつ、見透かせる(隠されたものが見える)ものです。

 それがよくわかるのが、4話の『選択肢:荷物、持つよ』でも描写された、シャニPが円香の荷物を持とうとするシーンです。

(今回の荷物はドライフラワーのスワッグ)

 4話では『重たい荷物を持つのが好き』というあからさまな建前を使ったため、荷物を持つことは叶いませんでした
 だからこそ『本当のところ(本音)が私には見えない』というモノローグがそのやり取りの後に流れたわけですが、

 今回は『もらった花を見せてもらえないかな』と花が見たいという本音を使ったため、荷物を持つことに成功しています
 それゆえ、モノローグは『形(建前)ではなく、その奥(本音)を見る』というものに変化しています。

 このことからも、円香は透明(奥が見えるもの)であることを良しとするということがわかります。


 ちなみに、私達はこの結論を出すために随分と長い道のりを辿ってきたわけですが、この事は1話『序』で既に提示されています

(1話『序』選択肢:……と、まぁ)

 この記事の最初の方にも書きましたが、1話はイントロダクションとしての役割も担っているわけです。


 さて、なんとか円香からドライフラワーを受け取ることのできたシャニPですが、彼はなんだかスピリチュアルなことを言い始めます。

 その方が、花が持つ魂を感じられるから円香をイメージして作ったのがわかるのだと。
 そして彼は実際に目を閉じてしまいます。

 シャニPのことが少し不安になるような描写ですが、これは彼が『形ではなく、奥を見る』ということを実践しているということでしょう。

 円香は会話を通してシャニPの本質や本音というものに触れようとしましたが、シャニPは目を閉じることで花が持つ魂に触れようとしたわけです。
 手法こそ違いますが、求めているものは同じなわけですね。


 さて、シャニPの目を閉じるという行為に『形ではなく、奥を見る』という意味があることがわかったわけですが、この行為には実はもう一つ重要な意味があります。
 それは目を閉じると何も見えなくなる(真っ暗になる)ということです。

「何を当たり前のことを」と思われるかもしれませんが、円香のコミュではこれを彷彿とさせるある表現が多用されています

 そう、暗転です。



 さて、暗転といえば、いい加減触れなければならないことがあります。
 それは、過去コミュにて暗転した際に登場する言葉が全く関連がないはずの【オイサラバエル】のボイスとして再登場した理由です。

 まずは先程も触れた【ギンコ・ビローバ】について考えてみましょう。

(【ギンコ・ビローバ】True END『銀』)

 先述したように、この『ぐちゃぐちゃに引き裂かれてしまえばいいのに』という言葉は、プロデューサーという肩書きの象徴であるスーツが引き裂かれてしまえばいいのにという比喩表現であり、彼の信用ならない外面の奥に隠されている本質を見たいのだという話でした。

 つまるところが形(プロデューサーという肩書き/スーツ)の奥にあるもの(本音/本質)を見たいということです。


 次に【ピトス・エルピス】について考えていきましょう。

(【ピトス・エルピス】True END『gem』)

 このコミュはhako(ピトス/オルゴール/ダンボール/カラスの巣/宝石箱=円香の心)に入っているgem(エルピス/音色/捨てる物/カラスが残した物/激情)が一体どういう意味を持つのかを考えていくコミュでした。

 そして『錆びついた音』とはオルゴール(hako)の音色(gem)であり、ラストシーンにてオルゴールの音色は円香の歌声とリンクし、画面が明転します。

(【ギンコ・ビローバ】3話『噤』)

 ここから読み解くことができるのは、【ギンコ・ビローバ】にて映画の主人公がそうだったように、円香の心(激情)が世界に溢れ出したということです。
 だからこそ円香が歌っている姿を見て『樋口円香には激情がある』とシャニPは発言したわけですね。

 そして、シャニPは円香が心の中に秘めている激情を求めていたわけですから(詳しくはこの記事)、彼は形(オルゴール)の奥にあるもの(オルゴールの音/激情)を見ようとしていたと言えるわけです。


 これらのことから、円香のコミュにおいて暗転とは、形ではなく奥を見ること(見透かそうとすること=透明にしようとすること)のメタファでもあり、シャニPと円香がお互いに核心を知りたい(見透かしたい)と考えていたということがわかります。


 ですが、そもそも我々はそんなこととうの昔に知っています

 シャニPは難解な言葉で隠された円香の難解な真意をいつだって探っていたはずですし、円香は彼を疑っていたからこそ283プロを訪れたわけです。
 では何故、今更それを強調するような描写がされたのでしょうか。

 その答えは明転にあります。



 そもそも【ピトス・エルピス】True END『gem』では、円香の激情が溢れ出した姿(歌っている姿)を見たシャニPが『樋口円香には激情がある』と確信することで明転します。

 対して今回は、シャニPが目を閉じることで花の魂を見ようとする姿を見た円香が『美しいものは 透明、なのかもしれない』と思い至ることで明転します。
 つまり、どちらも気付きを得たことで明転するという構図なのです。

 ということは、円香のコミュにおいて明転とは、気付きのメタファだと捉えることができます。


 さて、この先の詳しい解釈ですが、他の執筆者の記事から引用したいと思います(そっちが先に自分の解釈を書くだけ書いて結論の部分だけ私にぶん投げしてきたんだから、そのくらいの恩恵はあって然るべきだよねという姿勢)。

 プロデューサーの気付きからの明転に対し、今回は円香視点での明転。これは対応関係にあるものであると見ても問題ないように思われる。
 【ピトス・エルピス】がプロデューサーが円香の核心を垣間見る話であるとするならば、【オイサラバエル】は円香がプロデューサーの核心――円香の中にある「激情」と同等の「美しい何か」を垣間見る話(同時に円香の核心も見られているのだが)ということだ。

 つまるところ【オイサラバエル】終了時点で、シャニPと円香の両者が一度とはいえお互いの核心を見透かすことができたというわけであり、今回のコミュはお互いを見透かそうとするシャニPと円香の攻防の一つの区切りとも言えるわけですね。

 私はこれこそが、今回のコミュで明転という気付きのメタファが再登場し、暗転という見透そうとするメタファが登場した過去コミュを想起させる私服ボイスを実装した理由じゃないかと考えています。



 加えて、今回のコミュで時間軸に関連する話が多かったのもこれと同じ理由じゃないかと考えています。
 というのも、ここまでの道中で一部触れたように、【オイサラバエル】には過去のコミュを想起させるものが非常に多く登場するのです(そもそも円香のコミュはそういうギミックが多めって話ではありますが)。

(左:W.I.N.G.編 2話『カメラ・レンズに笑う』
右:【オイサラバエル】ライブボイス)
(左:【カラカラカラ】2話『水、風、緑』
右:【オイサラバエル】2話『廃墟、エントロピー』)

【補足】
 上の画像で示したもの以外にも、Landing Pointで初登場し、物語において非常に重要な要素であったくぐもった声という聴覚的な描写や、明転と暗転の間とも取れるグレーの背景というものも今回のコミュでは使われていたのですが、これらにまで触れると記事が長くなりすぎるので考察はしません。
 それについて話し出すと記事がLPの考察に寄ってしまうので、、



Monologue『透 き と お』

 さて、コミュの話に戻りましょう。最後のモノローグの部分ですね。

 最早恒例になってきたモノローグ爆弾ですが、この言葉の指すところが『好き透』である……と捉えるのは些か早計と言えるでしょう。

 確かに、このモノローグの前には『朝が来る』という言葉がありました。

 だからこそ浅倉透の存在が連想されるわけですが、このモノローグは『透き と お』と途中で欠けています
 ある人の言葉を借りるのであれば『活用形が確定していない』わけで、つまるところ「る」で終わるとは限らないのです。



 そもそも『朝が来る』〜『透き通る』を一連のモノローグとして捉えること自体が間違いなのではないでしょうか?

 そう考えられる理由は、4話の『選択肢:荷物、持つよ』に登場するモノローグにあります。

(4話『ノンフィニート』選択肢:荷物、持つよ)

 このモノローグはTEのそれと非常に酷似しており、4話の『選択肢:荷物、持つよ』がTEの一部が対比の関係であったことから、TEのモノローグと対比関係にあると考えることができます。

【True END】
「朝が来る」「花が開く」「土が湿る」「透き通る」
「朝が来る」「水が滴る」「酸素が満ちる」「透き通る」

【4話『選択肢:荷物、持つよ』】
「日は沈む」「花は枯れる」「極まったものは衰える」

 TEのモノローグが花が咲いていた過去であり、4話のモノローグが花が枯れた未来なわけですね。
 これは、花の生死や時間軸の変化が重要だった【オイサラバエル】だからこその対比表現と言えるでしょう。

【花が咲いていた過去
が来る
・花が咲く(花が開く)
  水やり(土が湿る≒水が滴る)
  光合成(酸素が満ちる)

【花が枯れた未来
が来る(日は沈む)
・花が枯れる
  盛者必衰(極まったものは衰える)

 ですが、この中で唯一『透き通る』のみが時間軸に関わる要素ではなく対比構造に組み込むことができません

 だからこそ『透き通る』は単体のモノローグであると考えることができるのです。



『透き通る』が『好き透』と解釈される1番の理由として、私服ボイスにて【UNTITLED】が踏襲されていることが挙げられますが、

"とおまど(透と円香のカップリング)"が描かれている【UNTITLED】を踏襲しているのは【オイサラバエル】も"とおまど"だからという考え方。

 大前提として【UNTITLED】が"とおまど"であるという解釈自体、本質からかなりズレていますし、私服ボイスで踏襲されているのは【UNTITLED】のみではありません

 というのも【UNTITLED】で全話を通して描かれたのは、透の立ち振る舞いを見て透を誤解する周囲の人間と、透の立ち振る舞いは見ていないが透を理解していた円香の対比です。
 形を見て奥を見ない周囲と、形ではなく奥を見ていた円香対比なのです。

(左:透を見ていた周囲 右:透を見ていない円香)

 もしも【UNTITLED】の主題が"とおまど"であるのなら(【オイサラバエル】の主題である『美しいものの話』がそうであったように)、全話を通して扱われるべきは『形ではなく、奥を見る』ことの対比ではなく"とおまど"のはずです。


 そして、この『形ではなく、奥を見る』は【オイサラバエル】の主題である『美しいものの話』に繋がる重要なものであり、【ギンコ・ビローバ】や【ピトス・エルピス】でも終盤における暗転 + モノローグという形で登場しています。
 ゆえに私服ボイスには【UNTITLED】以外のコミュも踏襲されているのです。


 これらのことから『透き通る』を『好き透』と解釈する根拠に【UNTITLED】を持ち出すのは不適当と言えるわけです(そうでなくとも文脈ガン無視で透に告白し始めるってのは、いくら何でも極まりすぎって話ですしね)。



 更に言えば、Pカードでメインとして描かれるのはシャニPとアイドルの関係性です。
 だからこそ、ユニットのメンバーとの関係性や彼女達への想いをテーマやコミュの要素として描き扱うことがあったとしても、核心に置くことは基本的にはしません
 アイドル間の関係性や想いを主軸にしたいならサポートのコミュか、あるいはシナリオイベントで良いのです。

(天塵で円香→透を描いたように)

 ゆえに今回のモノローグは直接透に向けたものではないと考えるべきでしょう(無論、円香にとって透明の指標の一つが浅倉透であるというのはありうるとは思います)。


 さて『透き と お』が『朝が来る』から始まるモノローグの一部ではなく、どうやら『好き透』でもないということがわかったわけですが、それではこのモノローグの意味とは一体何なのでしょうか?
 これを読み解くヒントはモロノーグが暗転の中で流れていることです。

 そもそも、暗転とは色々なものを表現する際に用いられる手法ですが、こと円香のコミュにおいては見透かそうとすることのメタファであり、それこそが円香にとっての美しいものでした。
 加えて、先述したように、このモノローグは「る」で終わるとは限りません

 これらのことを踏まえると、あの言葉は「透き通」と続けるのが1番自然なのではないでしょうか?

 自分の美しさの指標を自覚した後だからこそ、本音を曝け出しているようで、本当のところが見えない誰かさんに対して、透き通れと、貴方の隠しているものを私に見せて欲しいのだと彼女は願っていたのではないでしょうか。



後書き

 以上が今回の考察の全て、、ってわけじゃあないんですけど、記事が長くなりすぎるのもよろしくないのでここら辺で締めたいと思います。

 まぁ全部が正しい自信なんてないですし、私は高尚な文章を書けるわけでもないので、とりあえずはここまで読んでくださった方が面白かったと感じてくださっているのであれば幸いです。
 そもそも考察なんて正しくないのが前提ですからね。公式が明言していないものは程度の差こそあれど全て妄言妄想の類なわけで、、


 ちなみに、記事中にも触れましたが、この記事はある方から一部解釈をぶん投げられてたりぶん投げ返したりしています。

 その方の記事と私の記事では登場する解釈が似通っている部分も多いですが、それでいて解釈に至るまでの過程だったりが切り口は違っていたりするので、探して読み比べてみると結構面白いかもしれません。


 また、今回の考察と深く関わる【ピトス・エルピス】の考察を過去に投稿しているので、よろしければこちらもどうぞ。


 ということで、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
 それでは。

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