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ざくろ

五歳のころ。私立小学校を受験することになったわたしは、はじめて塾に通った。することになった、と言うと母は怒る。人が決めたことみたいに聞こえるから。自分で決めたことには自分で責任を持ちなさい、と母はよく言った。はじめて塾に行く日、母とランチに入った店のオムライスは学生仕様なのか異常に大きく、食べきれない、とすぐにわかった。けれど自分で決めたメニューだから、ばかに大きなスプーンに少しずつケチャップライスを乗せながら、とても長い時間をかけて全部をたいらげた。わたしが食べ終わるのを待つ間、母はコーヒーを何度もおかわりした。


よくあることだと思うけれど、わたしは子どもが不得意な子どもだった。たぶん近所に友達がいなかったからだろう。同じ年頃の子どもになじめず、親戚同士集まっても大人のところにばかり居たがるたちだったので、母がわたしに選んでくれたのは個別指導塾だった。塾は遠く、電車に乗って駅を出てまた少し歩かなくてはいけない。どれも同じに見えるビルの一つを階段でのぼり、透明なドアを開けるとほんの少し他人行儀なにおいがした。タクシーのシートみたいなにおい。詰め込んできたオムライスが、おなかをきゅうっとさせる。母が名前を告げると受付のお姉さんは愛想よく笑って、奥から名札を首に下げたおじさんを呼んできてくれた。おじさんの名札には顔写真と、大きな字でふりがなつきの名前が書かれていたのだけれど、わたしはそれから先彼を先生としか呼ばなかったので、名前はもう思い出せない。


細い廊下を通り、ノブの真ん中に鍵穴のついた、わたしの苦手なタイプのドア(こういうノブはたいてい固い)の手前で、母は先生に何度もお辞儀して受付のほうに戻った。わたしに、きちんとね、とか色々ぶつぶつ言いながら。先生に促されて、わたしが両手でノブを回すとすぐに先生はストップ、と言った。

「誰もいないけどね、部屋にきちんとあいさつをしなくちゃいけない」

わたしはドアを閉め、再び両手でノブを回し、ドアを自分の体に引き寄せながら空っぽの部屋に向かって「こんにちは」と小さく呟いた。先生がもっと大きく、と言ったので、半ばやけになって言った二度目の「こんにちはぁっ」は狭い部屋にウン、とこだました。


その狭い部屋で、わたしはスモックをきれいにたたんだり、皿に入った小豆を「正しい箸づかい」でちがうお皿に移したりすることを習った。テーブル越しに向かい合う、わたしに合わせた低い椅子に座る先生はいつもどこかきゅうくつそうで、ぱんぱんに膨らんだ太腿の、ほころびかけた生地の様子や、飛び出したポケットの内布、吐く息に混ざったタバコのにおいなんかが、母にないものをたくさんわたしに教えてくれた。もともとは白かったのであろう、くすんだブラインドはいつも窓の上で丸まっていて、隣のビルの屋上に、小さくて真っ赤な鳥居が見えた。


先生は優しかった。わたしは大人には慣れた子どもだったのでいつもきちんとした言葉を話したし、言いつけどおり部屋にも挨拶を欠かさなかった。それでも、たまにはしくじることもあった。まず、よく鼻血を出した。小柄だったのでのぼせやすいのと、体温の高い子どもだったのも関係があるのかもしれない。母はわたしが鼻血を出すとすぐ上を向かせたけれど、先生は

「うつむいて、流しっぱなしにするんだ」

と言うひとだった。わたしが鼻にティッシュをあてがいうつむいている間は、当然なにも習うことができない。すこしでも早く鼻血を止めようとして、洟をすすったりかんだりしようとすると決まって先生はたしなめた。すすらないで、かまないで。じれったいくらいのスピードでティッシュに染みていく血液の、少しずつ固まる感触。あの時間の息苦しさとやすらかさを覚えている。


また、ある時はテレビの真似をして先生に

「今日はクソ暑いですね。」

と言ったことがある。ですね、をつけたのはわたしのオリジナルだ。わたしのクソ暑い発言は授業のあとすぐ母に伝わって、家に帰ってからこっぴどく叱られたのだけど、母の真っ赤な顔を見てわたしは先生が怒らなかったのが不思議だ、と思った。母は理不尽な叱り方をしない人だったので、なおさら先生がわたしを叱らなかったことが正しくない気がしていた。それからわたしは得意だった小豆運びをわざと下手にやってみたり、図工で着るスモックを丸めてたたんでみたりといろいろ実験をしてみたけれど、先生は一度も叱らなかった。叱られてみたくて、先生が話している間わざと手遊びをしたことすらある。ほら聞いて、という先生の柔らかい声は狭い部屋のどこにもぶつからず、吸い込まれるように消えていった。叱らないの、とわたしが尋ねると先生は笑い、そのささやかな笑いの波に、日差しにちらちらと光る埃がほんのすこしだけ暴れた。


塾からすこしはなれたところに、ほとんどの遊具が壊れた、ただ広いだけの公園があった。生えっぱなしの草がわたしの膝小僧にこそこそと触れる。塾に早く来すぎた時は、母とここのパンダ(だったのだろう、黒と白の塗装の剥げたかたまり)に腰掛けて過ごした。


ある日、その公園に行くと男の子たちが集まっていて、わたしはたちまちいやあな気持ちになった。男の子たちは中学生くらいだったと思うがまだ高いほうの声をしていて、四、五人だというのに通園バスの中みたいに騒がしい。わたしは、少しくらい早くてもその日だけはさっさと塾に行ってしまいたかった。あの、静かで清潔な、大人のにおいしかしない受付が恋しかった。

しかし母がパンダに腰掛けて口紅を塗り直し始めたので、わたしはしかたなく隣のパンダに座った。こういうとき、母がいることは一人でいるよりももっと心細い。男の子たちの中で一人、頭二つ分くらい背の高い子が木に登っていた。わたしは木に登る子を見るのが珍しくて、ちらちらと彼を覗いた。背こそあるものの、遠目から見ても彼はやせっぽちで、黄色いTシャツから覗く腕は側にある本物の枝よりも枝みたいに見えた。

彼はその腕の片方で器用に体を支え、もう片方を伸ばして木から何かをとっていた。木の下でやや口をあけて彼を見守っている男の子たちの手にはそれぞれ赤い果実が乗っている。彼らはそれをちいさくつまむようにして、絶えず口元に運ぶ。はじめて見るその赤い実に、わたしの目はくぎづけになった。だから、黄色いTシャツの彼がわたしを見ていることに、すぐには気付かなかったのだ。ひらりと、まるで落ち葉みたいにおりてきた彼は、両手にその果実を持ったままパンダのほうにやってきて、ひとつをわたしの目の前に突き出した。

「ざくろ」

ぱっくりと割れた赤いグロテスクなかたまりは、わたしの手に乗るとずっと大きく、重く、媚びないにおいがした。母がまあ、ざくろ、と言ったから、わたしはようやく男の子の言った言葉がこの実の名前であることを知った。わたしは渾身の勇気でありがとうを告げ、母がかばんからビニル袋を取り出した。


「見て」

先生がそう言って、わたしにあの紙を見せたのはその日だった。わたしがさんざんざくろを見せつけて、自慢したあと。みずみずしい汁で手をべたつかせながら、わたしは実を何粒かちぎって先生にあげた。先生は手の上のそれらを薬みたいに一気に口に放り込んで、ぷちぷちと音をさせながら食べた。先生の手に吐き出された、つぶれた種。

ティッシュで包んでポケットに入れた後、入れ替わりみたいに出てきた紙はくしゃくしゃで、雑誌のカラーページの切り抜きらしく、折れた跡が白い筋になっている。教室は狭いから、わざわざ傍に寄らなくても問題はなかったのだけど、なんとなく行かなくてはならない気がして、わたしははじめて自分から先生に近づいた。先生を間近で見て、大きな耳だなあ、とわたしは思った。うすく毛の生えた、耳たぶの広い耳。

「どう思う?」

手の中のそれを見せながら先生は尋ねた。ぱっと見た紙の大半は肌色で、そこには本当に女の人の肌がいっぱいに写っているのだった。はだかの女の人がぐっと足を開いて、背中の後ろに手をついた格好でふにゃりと笑っている。そのあからさまなエロティックさは、わたしにとって不快に感じるには難しく、かといって嬉しいものでもなかった。わたしは写真の女の人を、瞬時に自分より下だと思った。けれどそのことを無難に伝えるニュアンスが思いつかなくて、わたしは黙ったまま先生を見上げた。わからない問題に遭ったとき、そうすれば先生はヒントをくれたから。

視線に気づいた、というより視線を待っていたようにじっとわたしを見下ろしていた先生の瞳が、瞬きを挟んでそっと焦点を移した。わたしから手の中の紙切れへ。そして、いつもみたいに笑うと「内緒だよ」とだけ言って紙をポケットに戻した。うすうい、笑い方。


わたしは先生と部屋にきちんと挨拶をして教室を出て、その帰り母にすべて話した。ざくろはかばんからなくなっていた。


次の塾の日、受付のお姉さんは奥から先生ではなく何人ものスーツを着たおじさんを連れてきて、お姉さんもおじさんたちも皆深々と母とわたしに頭を下げた。探したが、先生もざくろもどこにもいなかった。


先生が代わったところで、わたしに不都合な点はなにもなかった。わたしはまた同じように小豆を皿から皿へ移したり、スモックをたたんだりした。ただ、新しい先生――女性だった――は、部屋に挨拶をさせなかった。彼女が先に入ってしまうので、わたしはかつての先生の教えを守るタイミングをはじめから失った。若く、熱心な新しい先生は、あの写真の女の人とはまるでちがう生き物のように思えた。わたしは近場の私立小学校に合格し、その報告と同時に塾を辞めた。新しい先生はおめでとう、と言って涙ぐみ、わたしもちょっと目を潤ませることで応えた。塾を出て、見納めに振り返ったけれど隣のビルの鳥居は下から見えなかった。

(先生は優しすぎた)

不意に訪れたその結論は、わたしをどうしようもなく悲しくさせた。正しいかどうかはわからない。けれど、その思いつきはなかなか切ないものだった。おぼろげに浮かぶあの写真の女の人は、どうしたって幸せそうに見えないのだもの。


お祝いに外で夕食を食べてから帰ろう、と母は言ったけれど、わたしは首を横に振った。いまはとても、自分が選んだメニューの責任を持てそうにない。重い気持ちでそう思った。構わずなにが食べたいかと尋ねる母に聞こえないように、わたしは「ざくろ」と呟いた。


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