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#57 慶應小論文⑤環境情報学部

問題を作る

 今日の小論文の問題1と問題2のテーマは「問題を作る」ということです。
こちらから、一方的に出した問題を解いてもらうのではなく、どのような問題を作れば、あることが見えてくるのか、ということを考え、記述してもらうことで、みなさんの発想・論理的構成・表現などの総合的力を見たいのです。
 昨今、教育をめぐる議論の中で、問題を発見する力の重要性がよく言われます。問題の発見が、新しい考え方や新しい事実の発見に結びつくと考えられるからです。
 歴史的にも、みんなが当然だと信じていた大前提を問題にすることで新しい考え方や、それまでと違った事実が見いだされた例は数多くあります。よく知られた例ですが、ニュートンは、誰もが当然だと思っていた「ものが下に落ちる」ということを問題にし、その先に万有引力という答え(新しい考え方)を見つけました。
 良い問題は、新しい枠組み・考え方を提示します。
 そのことを「問題を作る」という普段とは違う視点を持つことによって理解し、考察してもらおうと考えました。

考え方の生まれ方を考える

 そして、この小論文の問題3では、科学の発展において新しい考え方がどう作られ、新しい事実がどう発見されてきたかを考察してもらいたいと考えています。今まで、みなさんは、たくさんの科学の法則や理論を中学校、高校で、具体的にひとつひとつ習ってきたと思いますが、この問題3では、それら全体を眺めるような視点で、そもそも新しい考え方の創造、新しい事実の発見とはいかなるものかということ自体を考えてもらいたいのです。(180分)

スライド10

問題1(問題を作る―― 1)

 1対1対応という考え方があります。「あるひとつのことがらが、他のひとつのことがらだけに対応すること」という意味で使われます。
 ここでは、まず、その1対1対応という考え方を使って、ある問題を解く例をふたつ挙げます。それを読んだうえで、設間に答えなさい。

〈例1〉
問題:公民館の畳敷きの大広間に、幼稚園児をたくさん集めたところ、70〜100人ぐらいの園児が集まった。正確に人数を知りたいと思ったが、走り回っていたり、泣いている子もいたりして並べるのは一苦労である。しかも、何人かは、手洗いに行っているらしい。さて、どのようにすれば、短時間で、園児の数を数えられるか。
答え:玄関に脱ぎ捨てられてある小さな運動靴などの履き物を並べて数えると、履き物1足につき園児ひとりが対応するから、素早く正確に数えることができる。

〈例2〉
問題:図1のように板チョコを筋(横4筋×縦5筋)にそって割ろうと思う。1回割る毎に一筋がきれいに割れるとすると、30個の最小単位になるまで何回割らなくてはならないか。ただし、割るときは、チョコレートを重ねてはいけない。
答え:1回割る毎に、チョコレートの断片がひとつずつ増える(1対1対応)。最終的に30個にするためには、最初の状態が1個だから29回割ればいい。

※チョコレートを分割する様子のイラストは省略

【問1】
 前記の例のように、「1対1対応という考え方」を使って解く問題とその答えを、ひとつずつ考えなさい。
 あなたが作った問題を解くのは、日本の中学生・高校生と想定してください。別の言い方をすれば、中学生・高校生が、その問題を解くことによって、「1対1対応の考え方」が学べるような問題を求めています。
 ただし、問題を作る際、先のふたつの例のように、問題文の中には、この「1対1対応」という言葉を用いてはいけません。それを言葉で出すと、解く人が自ら考え方を見つける問題にならないからです。答えの文には、その言葉は直接用いても用いなくても構いません。
 問題は問1―1の欄に150字以内、答えは問1―2の欄に100字以内で書いてください。問題の説明のために図が必要な場合は、解答欄の右側にある空欄に記入してください。ただし、図は問題に対してだけで、答えは文字だけで記述してください。もちろん、図の有り、無しは、採点に影響はまったくありません。必要がなければ、その空欄は空けておいてください。

※ 注意してほしいのは、単に数学の問題を作りなさい、と言っているわけではないということです。教科書や参考書に出てくるような問題ではなく、あなた独自の問題を見せてください。

問題2(問題を作る――2)

 私達の前に現れる現実の問題には、さまざまな要素が入り込み、その問題の本質が見えにくくなっていることがあります。その時に、図や表を使って、問題を単純化したり整理したりすると、その問題の本質が浮かび上がって、そもそもの問題が考えやすくなる場合が多々あります。この場合、本質を骨格と言い換えても良いかも知れません。
 ここで、図を使うと問題の本質あるいは骨格が見えてくる例として有名な問題を挙げます。「ケーニヒスベルクの橋」と呼ばれる問題です。これを読んだ上で、設間に答えなさい。

※ケーニヒスベルクの橋とその図式化のイラストは省略

〈例:ケーニヒスベルクの橋〉
 図2のように、ケーニヒスベルクという町は、町の中を流れる川によって4つの地区A、B、C、Dに分断されていて、7つの橋が架けられていました。この町の人たちの間には、いつの頃からか「同じ橋を2度渡ることなくこれらすべての橋を1回ずつ渡るルートはあるか?」という問題が生まれていました。長い間、この問題を解こうと町の人たちがいろいろな行き方を実践しましたが、みんなを健脚にするだけで、この問題の答えは一向に見つかりませんでした。ところが、ある時、この町にやってきたひとりの青年が、この問題を深く考察したところ、次のような別の形の問題に還元されることがわかりました。
 4つの地区をA、B、C、Dという点で表し、7つの橋を線で表すと、図3のようになり、「同じ橋を2度渡ることなくこれらすべての橋を1回ずつ渡るルートはあるか?」という問題は、「図3が一筆書きできるか、どうか?」という問題に帰着します。
 この青年は、図3が一筆書きできないことから、この問題に対して「そのようなルートはない」という答えを出しました。(図3が一筆書きできないことは、この小論文の試験が終わったら試してみてください。)

【問2】
 さて、ここからがみなさんにやってもらう問題ですが、まず先に、図を与えます(図4)。みなさんには、この図が、その問題の本質、あるいは骨格になるような問題を逆に考えてもらいたいのです。図4と同じ図が、問2の解答欄の左側に描いてあります。ただし、まだA、B、C、D、E、Fといった文字は記入されていません。その図に、あなたの作った問題に合わせた文字を添えてください(例えば、AさんとかA市とか)。さらにわかりやすくするために必要なら、その図の近くに短い注釈文を付けても構いません。
そして、その右側の升目に200字以上、400字以内であなたの作った問題を記述してください。
 やはり、この問題も問1と同じく、日本の中学生・高校生が解くものとします。つまり、中学生・高校生が、あなたの作った問題を与えられた時、この図を描くことによって、その問題の本質あるいは骨格が見え、解けるような問題を求めています。
 尚、この図4の解釈は、すべてみなさんに任せられていると考えてください。

画像2

問題3(考え方の生まれ方を考える)

 科学において新しい考え方は、初めは仮設と呼ばれたり、「確からしさ」が確定され、体系化されると理論とか法則と呼ばれたりします。よく言われるように、新しいデータを取り、それを分析すれば、新しい仮設が見え、やがて、理論や法則が生まれてくるのでしょうか。そのことを考えるために、ある文章を用意しました。
注:仮設とは「ある推理の出発点として設定される命題」のこと。仮定と同じ意味。

 次の文A、Bは、科学の発展において、どのように仮設や理論が作られてきたかということについて、ある著者が同じ著作のなかで、前段と後段に書いたものです。文A、Bそれぞれの後に、やはり同じ著者が書いた文中の用語についての補足文も文A′および文B′として付けてあります。
これら4つの文を読み、間3―1、3―2に答えなさい。

文A [常識的科学観の特性]

データの中立性

(前略)第1に気のつくことは、仮設や法則、あるいは「規則」といったものが正しいか正しくないか、ということを判定する役割を担っているのは、観察データである、という点です。(中略)実は、どれだけそれを支持するデータを積んだからといって、その仮設や法則が、決定的に正しいという判定はくだされ得ないのであって、確からしさを増すだけであるわけですが、反証の場合には仮設に対して「書き換えを要す」と宣告をくだすのは観察データでありますし、検証に際して、仮設の確からしさを増大させるものも観察データに他なりません。これはいかにも当たり前の話、わざわざあえて言い立てるまでもないような話に思われるかもしれませんが、あとでこのことについても考え直すことにしていますので、ここであらためて書いておきます。

蓄積性と進歩

(前略)第2の特徴は、第1の特徴とも関係することですが、観察データの蓄積性という点です。(中略)正しく――実はこのことばの真の意味が何であるかを問い始めると、ひどくやっかいな泥沼に入り込む可能性もあるのですが、今はそこに立ち入ることはしません――見取られた観察データである限り、それは1回見てしまえば、その見てとった当の人間のみならず、大げさにいえば、人類全体の共通の財産になるわけです。そして、人類は、個々人が新しい発見をするたびごとに、そのような共通の財産を少しずつ増やして行く。観察データは、積み重ねという形で日一日とその数を増し続けている、と考えられているわけです。
 このことから出て来る第2の特徴は、法則の進歩主義ということができます。観察データは着実に増え続ける、法則はそれによって修正され続け、あるいは書き換え続けられる。今までn1個の観察データを手にしている段階で認められていた法則L1は、観察データがn2個に増えた(n2>n1としておきましょう)とき、もはや成り立たなくなり、法則L2に書き換えられたとします。
 このときL1とL2とを比べて、どちらが「より正しい」かはだれの目にも明らかではないでしょうか。L1はn1個の観察データによって支持されており、L2はn2個の観察データにより支持されている。そしてn2はn1より大きい。これだけの条件を与えれば、L2の方がL1よりも「より正しい」、あるいは「より真理に近い」ということは、当然であるように見えましょう。
 そしてすでに認めた観察データの蓄積性という特徴を考え合わせますと、人類は総体として、1日1日と新しい観察データを蓄積し、その数を増大させているわけですから、n1からn2へ、そしてさらにはn3へというように、自分たちの手にする観察データが着実に増え、それに伴って法則もL1からL2へ、そしてL3へと確実に書き換えられるのであれば、自然をとらえるいろいろな法則類は全体として「より正しい」方に向かって、「より真理に近い」方に向かって少しずつではあっても、確実に進んでいる、と考えてよいのではないでしょうか。こういう考え方を「法則の進歩主義」よりも広い意味をこめて、「知識の進歩主義」と呼んでおくことにしますと、このような「知識の進歩主義」もまた常識にはぴったり来る考え方であることがわかります。
 歴史的に見ても、昔の人たちは、今の科学的な知識から見てずいぶん馬鹿げた考え方を平気でしていたという印象があります。地球が動くなどということはどうしても信じられず、それどころか、地球が球であることさえ、地球上ほとんどすべての民族の間で信じられていなかった時代がありました。それに比べて今は……と考えれば、この「知識の進歩主義」は、これまたあまりにも当然の話である、と思われるでしょう。

文A′(文Aの補足文章)
 この著者は文Aの内容を展開する前に、「データ」という言葉について次のように述べている。

データの意味

(前略)データという語は、どことなく、科学の衣を着ており、いかにも科学的であって、そんじょそこいらのつまらない日常的な知識とは違って、確かで客観的な匂いがしたのでした。データというのは、日本語の中には英単語の1つとして入ってきたのでしょうが、もともとはラテン語を語源としていることばです。データに相当する英語は《data》で、これはごぞんじのように複数形です。単数は《datum》といいます。この語はラテン語では、《与えられたもの》という意味を持っています。(中略)

与えられたもの

 さて、「データ」は「与えられたもの」である。それがどうしたのでしょう。ここでは、「データ」というのは、人間にとって「与えられたもの」なのだ、という考え方が、「データ」ということばそのものの中に隠されていることに気をつけておきたいのです。それは、「与えられたもの」である以上は、人間の側としては、もうどうしようもないものだと考えられているということです。
 よく幾何学や代数学で「しかじかの条件が与えられたとすると」という表現を使います。このときには、わたくしどもは、その条件についてはもうどうすることもできず、頭から認めてしまわなければなりません。その条件に文句をいってみても始まらないのです。それがルールです。
それと同じことで、「データ」という限り、それは、人間にとっては頭から認めてしまう以外にはないような、絶対的なものということになります。(中略)
 このように、データということばのもつ意味には、それ自体が、人間にとっては、ただ外から与えられるだけ、という前提が含まれていると申せましょう。そしてこの前提は、常識的であり、とりわけ自然科学では、つねにデータから出発する、という常識的な考え方にもよく合致しています。

文B

理論が「事実」を造る

 もう1つ、今度は歴史のなかから印象的な例をご紹介しましょう。酸素の発見といえば、18世紀後半のラヴォアジエを想い出します。不幸にしてフランス革命のギロチンの露と消えたこの化学者は、酸素《oxygene》の命名者として、酸素発見の栄誉を独り占めしているようですが、イギリス人のJ・プリーストリ、あるいはドイツ系スイス人のK・シェーレらがほとんどまったく同じ年に、相次いで酸素(という名は与えなかったにせよ)を発見しています。(中略)
 けれども「酸素の発見」とはいったいどういうことなのでしょう。例えば、何か還元反応が起こって、水溶液のなかにぶくぶくと泡が立ったとします。その現象そのものが、突然18世紀に出て来たわけではありますまい。そんな現象は、中世にも古代にも、ヨーロッパだけでなく、中国にもインドにも、いつでもどこでも起こっていたに違いありません。しかし、ではその現象を目撃した、その泡を発見した最初の人が「酸素の発見者」なのでしょうか。もしそうだったら、「酸素の発見者」は、ラヴォアジエやプリーストリはおろか、アリストテレスやプラトンでもなく、日本の無名の刀鍛冶だって、あるいは中国の錬丹術師でも、あるいは極端にいえば、もしかしたらネアンデルタール人だって「酸素の発見者」になり得るではありませんか。
 明らかにそれではおかしい。「酸素の発見」とは、酸素の気泡を目撃したこととはまったく違います。ある気泡を、しかじかの酸化=還元についての統一的な理論を前提とした上で、その理論のなかで、ある機能を果たしている気体として見たときに、初めて、それは酸素の発見になるのです。ある人が、視野のなかのある部分に「酸素を見る」こと、「ここに酸素があります」と言えることは、ある視覚刺激の束をその人が受け取ることとはまったく違うのです。そして、「ここに酸素があります」という「事実」は、明白に、そこに前提されている酸化=還元の理論によって、初めて「事実」たる資格を得るのです。(中略)
 ただ、ここで非常に奇妙な論点が現れてきたことになります。と言いますのも、前段で紹介したような、科学についての常識的な考え方に従えば、理論は、データから、帰納によって造られることになっていました。しかし、ここに至って事態は完全に逆転したからです。「事実」が科学理論によって造られるものと考えられることになりました。この逆転こそ、わたくしがこの本で申し上げようとしていることの1つの中心となるものです。

文B′(文Bの補足文章)
 この著者は文Bの内容を展開する前に、「事実」という言葉を次のように説明している。

「見る」と「理解する」

(前略)わたくしどもは、「見る」という行為のなかで「理解する」という行為を同時に行っているのだ、ということができましょう。(後略)

「造り出されたもの」としての「事実」

(前略)「見る」ということは、人間が外から流れ込む情報を受動的に受け取る、というようなものではなく、むしろ、人間の側のもっている「理解」の能力を駆使して、能動的に何かを造り出す作業だということができます。その意味では、こうして「見る」ことの結果として得られたものは、あの文字通りの意味での「データ」、つまり「人間(の感覚)に対して外から受動的に与えられた所のもの」ではなくて、「人間の感覚と理解の力との協働作業によって能動的に造りだされた所のもの」と考える方が至当ではないか、と思われてきます。
 じっさい、英語では「事実」に当たる単語はご存じのように《fact》です。しかし、この語の語源的な意味は必ずしも一般に知られてはおりません。「データ」がラテン語の「与える」という語の所相(意味としては英語の過去分詞に近い)つまり受身形から造られていたように、この《fact》という語もラテン語で「造る」とか「為す」とかいう意味を持つ《facere》の所相から生まれた単語でした。つまり《fact》という英語の直接の原形であるラテン語の《factum》は「造られた所のもの」、「人の手によって為された所のこと」の意味をもっていたのです。ですから《fact》 という名詞を形容詞化して《factitious》とすると、これは「事実的な」という意味はまったくなくなって「人為的な」、「虚構の」ということになってしまうのです。フィクションという片仮名書きで日本語の中に入り込んでいる《fiction》、つまり「虚構」に酷似した意味であるといってよいでしょう。
 「事実」が「人の手で造り出された虚構」である、というのはいかにもふしぎなようですが、先に述べたように「見る」という行為がそもそも、人間の側からの「造り出す」という作業を含んでいるとすれば、それは当然なことになるでしょう。「裸の事実」というのはむしろあり得ず、あるのはつねに、人間の側のある働きを媒介として「造り出された事実」であることになるからです。(出典:新しい科学論/村上陽一郎 著/講談社/1979/一部加筆あり)

【問3-1】
 文Aの内容と文Bの内容は科学の発展について、一見異なる見解を述べています。前記の4つの文章を踏まえ、過去の法則や理論の発見などにも触れつつ、統合的に「科学において新しい考え方はどのように生まれるか」ということについて、あなたの考えを500字以内で論じなさい。
 過去の法則や理論の発見は、それを詳しく説明すると文字数が足りなくなるので、注意してください。「〜の法則(理論)が〜であったように」というように軽く触れてください。あくまで、この4つの文章を踏まえて統合的にあなたの考えを論じてほしいのです。そして、過去の法則・理論については、ニュートンとラヴォアジエの例は既に挙がっているので、それらは避けてください。

【問3-2】
 文Bとその補足文章B′の内容に則したあなたなりの実体験に基づく考察を500字以上800字以内で記述しなさい。記述する際、あなたが、“その事実”を知るようになったのは、どのような理論や考え方があなた自身の中にあったからなのか、あるいは“その事実”を知るためには、どのような理論や考え方があるべきだったのかを論じなさい。その際、まず、その理論や考え方の具体名を解答欄に挙げなさい。
 尚、あなたが論ずる内容のジャンルは問いません。
 解答の例を、下記にふたつ挙げておきます。

〈解答例1〉 理論・考え方の具体名:線形・非線形という考え方

中学の時の夏休みのことである。宿題の自由研究を何にしようかと考えていた時、窓辺に集まってくる夜の虫を見て、思いついたことがあった。それは、明るければ明るいほど虫の数が多いのではないか、という単純な仮設であった。さっそく、ふたりの弟の電気スタンドを借りて、1灯の場合、2灯の場合、3灯の場合と同じ時間内に集まってくる虫の数を、3晩にわたって、数えた。予想通り、灯りを増やせば、虫の数は増えてきたが、予想に反したこともあった。それは、2灯の場合は1灯の場合より、2倍の数の虫が集まるのではないか、3灯の場合は1灯の場合の3倍近く集まるのではないか、という予測であった。それは、見事に裏切られ、その晩、集まった虫の数はどう考えても増え方が支離滅裂のように思われ、やっぱり虫にもいろんな事情があるから比例しないんだろうと、そのデータをないがしろにし、増えたという事実だけを自由研究の発表とした。当然だが、評価は低かった。その後、高校の数学の先生に「線形」という考え方を教わった。その先生は、リンゴが1個50円なら2個で100円、3個で150円というように比例して増えていくのを「線形」と言うが、世の中にはこのように線形なものは実は少ない。伝染病の増え方や工業製品の生産量と単価の関係などは「非線形」だと教えてくれた。人間は直線的な増減は予測できるが、非線形的な増減になると、途端に苦手になる。しかし、線形・非線形という考え方を知ると、いままで見過ごしていた一見、支離滅裂なデータも、それを無視せず価値のあるものとして扱うようになる。もし、私が、この線形・非線形という考え方を中学の時、知っていたとしたら、あの時集まった虫の数と蛍光灯の数の関係が比例関係でないことを、正しく受けとめたであろう。私がこの考え方を知らなかったばかりに、データが読めなかったのである。[776字]

〈解答例2〉 理論・考え方の具体名:映像制作のための文法

私は、映画やプロモーションビデオといった映像が好きで、見るだけでは飽きたらず、昨年の暮れ、「映像の文法」という映像の理論書を読破した。そこには、オーバーラップやカットつなぎといった映像と映像をつなぐ手法とそれを用いる意味、パンやズームなどといった撮影の手法とそれを用いる意味など、映像制作における理論全般が書かれていて、とても興味深かった。中でも、1秒間をフィルムでは通常24コマで撮影することや、そのコマのひとつひとつを2コマや3コマずつに伸ばすスローモーションや1コマおきにつまんでいく早送りの技術、さらに1コマおきに削除しつつその前のコマを1コマ伸ばす「コマ止めコマ伸ばし」と呼ばれる編集技術が細かい計算の上に成り立っているのに驚いた。その後、この正月に、もう何度も見ている大好きなあるハリウッド映画をもう1度見ようとそのビデオをレンタルショップから借りた。私はそれを見て愕然とした。もう何度も見ているのでストーリーはわかっているのだが、今回は、その映画監督が行ったカットつなぎとかコマ単位の編集やカメラの動きが、見えてきたのだ。例えば、かなり迫力のあるシーンがあるのだが、そのシーンを構成するときのカットつなぎにこの監督は瞬間的に黒みを数コマ挿入していた。一時停止してビデオのコマ送りで調べてみると6コマの黒み、つまり0.25秒の黒みが入っていた。心理的に、前の場面との距離感を作るためと人間の目にショックを与えるためだと思われるが、そんなものまで無意識に見えるようになった自分に驚いたのだ。今まで何回も見ているのに今回はそのように見えてきた箇所がたくさんあり、理論を知ると、見えなかったことも見えてくることを知り、さらに映像に対して興味が深まった。[733字]

※ 以下は、上の解答例2を読むための注釈です。
① オーバーラップ:ふたつの映像をつなぐ時に、前の映像を徐々に消し、それと重なるように、後の映像を徐々に現れるようにするつなぎ方
② パン:カメラを三脚などの中心軸に合わせて回転しつつ撮影すること
③ ズーム:レンズを使って対象物を連続的に拡大したり縮小したりして撮影すること


※ あなたの作った解答が与えられた文字数制限内なら、文字量は点数とは関係ありません。あくまで、内容によって採点されます。ただし、上記のふたつの解答例を形式的に流用し、ことがらだけを変えただけの解答は、減点の対象とします。

【解答例】

【問1】問1-1(解答例①)
問題:推薦入試のための志望理由書が30行記入可能な罫線だけの指定の用紙です。執筆は手書きの黒ボールペンでなければいけません。そこで生徒はPCで下書きを作った上で清書をしようと考えています。しかし、一体何字くらいの原稿を書けばいいのか、想像できません。どうしたら大体の字数を算出できるでしょうか。(145字)
【問1】問1-2(解答例①)
答え:試しに自身の手書きで1行書いてみて、大体何字くらい記入できるのか数える。そして、その字数に30をかける。(54字)
【問2】
以下のABCDEFの交友関係を読み解き、「最も優しい生徒は誰か」答えなさい。なお「最も優しい」の定義は①「多くのつながりを持っている」こと、②「孤立している生徒ともつながりを持っている」ことです。①と②のどちらか一方が当てはまるのではなく、①と②の両方の当てはまる生徒が「最も優しい生徒」です。なお一方が「つながりを持っている」と認識した場合は「双方がつながりを持っている」ことを意味します。この定義と条件に当てはまる生徒を1人選び、記号で答えなさい。「AさんはBさんとつながりを持っている」「CさんはDさんとつながりを持っている」「EさんはAさんとつながりを持っている」「FさんはBさんとつながりを持っている」「DさんはAさんとつながりを持っている」「BさんはEさんとつながりを持っている」(341字)
【問3-1】
 科学における新しい考え方は蓄積と偶然から生まれてくる。文A′で語られているデータの「人間の側としては、どうしようもない」側面から起因して生まれてくる場合がある。
 例えば、ロボット研究から見えてくる人間性の発見だ。その分野で有名な石黒浩氏によると、ロボットを人に近づけようとすればするほど、それは人から遠ざかっていくそうだ。石黒氏は人型のアンドロイドを制作する過程で人の細かな仕草や動作まで再現しようと苦心した。しかし、事細かに再現すればするほど、ロボットは人間らしさ(現実味)がなくなり、むしろ違和感(虚構感)が増すらしい。
 そこから石黒氏はロボットを研究しているはずなのに「人間とは何か?」と考えさせられるようになったと言う。これは自然科学の探究が人文科学を包含していく逆説的な様相を示している。これは科学における新しい考え方と言えるだろう。
 注目すべきは以上の結果が必然の帰結ではないという点だ。石黒氏の発見は深い追究の末に偶発的に生じたものだ。いわば、偶然が学問や発想を深化させたのである。したがって、科学における蓄積と偶然は、時に分野を越える更新性や可能性を秘めていると言える。(490字)
【問3-2】
理論・考え方の具体名:音は振動という考え方
 私は子どもの頃に父親から糸電話で遊んでもらった経験がある。糸電話は、糸を緩めた状態では音声が伝わらず、張り詰めた状態にすると伝わる代物だ。張り詰めることにより糸に振動が生じ、それが波となり相手に届く仕組みである。けれども、当時の父はそれを「魔法」と言って私を楽しませてくれた。今考えてみると単なる子ども騙しなのだが、当時の私からしたらそれは確かに現実をひっくり返す「魔法」であった。なぜなら、緩めた状態の近い距離では聞こえず、張り詰めた状態の遠くの距離では聞こえるようになったからだ。知識のない子どもにとっては、物理法則に反した現象に見えたのだ。
 しかし、高校生になり初めてライブハウスに行った時に、中学の頃に習った「音は振動である」という考え方が実感として理解できた。なぜなら、ライブハウスに流れる爆音は胴体に空気の振動を伝えるほどの強烈なものだったからだ。体に震えがくる感覚が理科の授業内容を実証してくれたのだ。いわば、その時に初めて「音は振動である」という事実を実感として理解した。
 しかし、その理解は科学的な発見や論証、説明がなければ成立しないだろう。おそらく中学の頃に「音は振動である」と学ばなければ、ライブハウスでの感覚が音の正体であると気付くことはできない。糸電話の仕組みも同様である。なぜなら、空気の振動や糸の振動は可視的なものでないからだ(糸の振動はよく観察したら見えるかもしれないが)。簡単に言えば、音は目に見えないために実体感覚が獲得しにくいのである。それは文B′で言われる「裸の事実」として感得しにくい現象とも言える。そのため、「音は振動である」という事実は科学理論が先行していなければ存在しない事象と言える。どこにでも存在しているのに、科学理論がなければ存在し得ない、パラドキシカルな事象と言える。(781字)

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