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#84 社会問題としての小論文教育⑬

 今日は学校現場における小論文指導の「原理的な困難さ」についてお話しします。それは、具体的に言うと、先生側に原因がある指導の原理的な困難さについての話です。「原理的」という表現には理由があります。それは言い換えれば「構造的」と言ってもいいかもしれません。
 
 しかし、にもかかわらず、学校現場における小論文の需要は高まっています。原理的に、構造的に指導は困難であるにもかかわらず、指導の需要だけは高まっています。
 
 言われれば、すぐさま腑に落ちる話ですが、意外と人々は気が付かない。そのような学校現場の見落としがちな問題点についてお話しします。

(3)高校教員おける2つの経験不足

 世の中の多くの学校の先生は大卒の人が多いです。少なくとも高等教育までの学校現場で働いている方のほとんどは大学の学部卒業の人が多いです。勿論、これは各学校によって変わります。例えば、高校であったとしても、大学院を修了していないと就職できないような学校もあります。しかし、学校の先生の総人口で言えば、圧倒的に学部卒の人のほうが多いです。
 
 学部卒だと「学術論文」の執筆経験がほとんどありません。大学院に進学した先生は執筆経験があるでしょうけれども、学部卒の場合はほとんど書く機会がありません。たった1回の卒業論文の執筆では、当然ながら「論文執筆の経験が豊富」とは言えません。
 
 また、たとえ国語の教員であったとしても、授業として体系的に小論文を指導する機会はごく稀です。なぜなら、現在の時点(2017年)では大半の学校に「小論文」の授業がないからです。多くの国語の先生は生徒の受験のために、放課後個別に小論文を指導します。そうすると、いわば全体指導する機会が持てません。全体指導をしないということは内容を体系化して教える必要がない、ということです。これは個別指導を批判しているわけではありません。要は、個別指導と全体指導とでは若干性質が違うということです。1人に向かって話をするのと、30人に向かって話をするのとでは、問題を抽象化したり具体化したりする度合いが変わる、ということです。そのため、個別指導「しか」したことがないという教員は、体系的な指導が経験的に弱いと言わざるを得ません。
 
 まとめると、一般的な高校教員は「Player」としても「Teacher」としても論文指導の経験が不足しています。自身が論文を「書く」経験も、論文を「指導する」経験も、共に少ないのです。そしてこれは当然の帰結です。なぜなら、大学のカリキュラムに論文を書く機会は原則として卒業論文しかありませんし、高校のカリキュラムにも小論文の授業が組み込まれることは稀だからです。それが「原理的」「構造的」と語る理由です。
 
 そのため、高校の現場の先生が一所懸命に指導しようとも、その内容と方法は印象批評(フィーリング)的なものにならざるを得ません。なかでもありがちなのは、(A)文体指導だけか(B)内容指導だけか、そのどちらかに偏ってしまうパターンです。(A)は表層的な日本語の使用状況だけを指摘するパターンです。(B)は知識を提供するような形で内容上の不足点を指摘するだけのパターンです。これらはどちらも間違った指導ではありません。しかし、原稿全体を見据えるような総体的な指導ではありません。もしくは執筆過程・思考過程をも含めた分析的な指導にはなりません。そうすると、生徒の才能や能力を十全に引き出すことはできません。
 
 しかし、すでに指摘した通り、これは原理的で構造的な問題です。そのため、簡単に解消することはできません。だから、小論文指導は「原理的に困難」なものなのです。しかし、逆を言うと、それゆえに学生の「自力」が問われる試験にもなります。先生からの指導の賜物ではなく、学生本来が備えている才能や能力が計られます。それはある意味で極めて平等で公平な試験かもしれません。しかし、一方では時代の趨勢により、小論文指導の需要は高まっています。にもかかわらず、原理的に指導の体制が組みにくい、という点は問題です。もしからしたら、今後は学校の先生のあり方を変えるべきなのかもしれません。

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 皆様、いかがだったでしょうか。簡単に解決しようのない問題です。が、それ以上に意外と「見えにくい」問題ではなかったかと思います。
 
 次回は学校現場の小論文指導を巡る環境についてお話しします。それはある意味で「歪な状況」と言っても良いかもしれません。ご興味ございましたら、是非お読み下さい。では、また!

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