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#89 社会問題としての小論文教育⑱

 今日は小論文における「代筆」の問題についてお話しします。読者の皆様は代筆というものをしてもらった経験はありますか? もしバレたら当然怒られます。すなわち、やってはいけないこと、いわばタブー(禁忌)です。そのため、教育現場ではあってはならないことです。
 
 けれども、意外にも小論文を巡る指導では代筆の問題が発生しています。正確に言うと、小論文ではなく志望理由書の代筆です。単純に言って、これは良くないことです。しかし、行われています。それはなぜか? 学校現場はどうなっているのか? 今日はそういった学校社会の闇や暗部についてお話ししたいと思います。

(8)大人(教員や保護者)による代筆

 受験小論文・入試小論文には起こらない問題ですが、志望理由書等を巡る問題として起こっているのが「代筆」です。生徒の原稿を大人(教員や保護者)が生徒に代わって書いてしまう問題です。これはいわゆる詐称・詐欺に近い行為です。ただ、このような問題が生じるのにも事情があります。それは大きく2つに分けられます。

(A)生徒と大人(教員や保護者)の癒着体質

 1つ目は合格する確率を少しでも上げたい事情です。これは生徒と大人(教員や保護者)の癒着体質によって生じます。生徒は大人に頼り、大人は生徒に好かれるためにその依頼に応える。そういった形です。これはまず大人に依存している生徒に問題があります。いわば、自立・自律していません。けれども、生徒の依頼(依存)に応える大人にも問題があります。いや、むしろ本当に問題なのは大人のほうです。なぜなら、大人であるのに、詐称・詐欺に加担しているからです。
 
 しかし、話は単純ではありません。大人の中にはこのように考えている人が少なからずいるからです。「生徒の希望(依存)に応えてあげることが教育(愛情)なのだ」と。このようなことを「本気」で考えている大人は確実に存在します。保護者ならいさ知らず、教員の中にもこのような人は一定数います。個人的な経験から言えば、このようなタイプはむしろ教員のほうが多かったです。「代筆」を本気で生徒への「愛情」と考えているのです。繰り返しになりますが、「代筆」は明らかな詐称・詐欺行為です。であるにもかかわらず、それを「教育(愛情)」の名の下に正当化(隠蔽)します。
 
 ゆえに生徒にも罪悪感が生じません。教員に感謝こそしても、自分が悪いことをしている自覚はありません。
 
 そしてそれは他の生徒へも蔓延する可能性(危険性)があります。「A子ちゃんはB先生に代筆してもらって良い文章になったそうだから、私もB先生にお願いしよう!」と言った具合です。人は易きに流れます。そのため、1度そういった「代筆の温床」ができてしまうとエスカレートする一方です。
 
 また傍からみると、代筆は赤字がたくさん並んでいるため、「熱心な添削」に見える場合があります。そうなると代筆者は「生徒のために一所懸命書いてあげている熱心な先生」という印象がもたれます。つまり明らかな詐称・詐欺行為が社会的な評価に変容してしまうのです。実際に私が経験していた話をすると、生徒の書いた拙い志望理由書を見ながら、赤ペンでA4用紙にご自身の文章を書いている先生がいらっしゃいました。そして、生徒は赤ペンで書かれた原稿を嬉しそうに受け取り、お礼を言って退出しました。職員室で堂々とやっていらっしゃったのです。その先生からすると、それが「添削」であるそうです。私からしたらそれは「代筆」でした。
 
 しかし、その様子を見ていた管理職(教頭先生)は、その代筆されていた先生に向かって「いつもご苦労様!」と労いの言葉をかけていたのです。どうやら管理職は代筆されていた先生を「教育熱心」と評価していたようです。
 
 私はそれをおかしいと思っていました。また、生徒の中にも良くないと考えている者はいました。入試で小論文が課される生徒です。このような生徒は結局のところ「自力」が問われます。だから、代筆という「他力」には本質的に意味がない、と判断しています。至極まともな判断です。高校生にもなれば、それくらいの判断ができる生徒はちゃんといます。しかし、それができない生徒や教員もいます。
 
 そうなると、生徒・教員双方に構造的な悪循環ができあがります。それが「代筆の温床」の本質的な問題です。

(B)疲労による代筆

 そして2つ目は教員の疲労・疲弊による代筆です。能力の低い生徒の原稿の添削は時に代筆よりも大変です。また文章執筆能力の高い教員ほど、800~2000字程度であれば、添削よりも自分で執筆したほうが早いです。何度も生徒に書き直させるよりも、生徒の言わんとしている内容を咀嚼して1回だけ教員が書いてしまったほうが楽なのです。
 
 では、もし生徒に添削を依頼された時に教員が心底疲労していたらどうでしょう。疲れてはいるけど、生徒の依頼は断りたくない、という場合はどうでしょう。疲れていれば教員はつい代筆をしてしまいたくなります。もしくはそれに近い行為をしてしまいます。もしくは進学実績を上げなければならないような状況であれば、そのプレッシャーから代筆をしてしまうかもしれません。
 
 しかし、何にせよ、代筆は詐称・詐欺に近い犯罪行為です。どのような理由があるにせよ、そこに教育的配慮はありません。ただし、そうかといって直ちに断罪することもできません。それがこの問題の根本的な難しさです。
 
 というのも、代筆はその定義が論理的にできないからです。いわば「どこからが代筆で、どこまでが添削なのか。」その境界を明確にできないのです。例えば、4段落あるうちの1つの段落だけ大人が執筆する場合はどうでしょう。1、2行を丸々加筆修正した場合などはどうでしょう。おそらくこれは人によって判断が異なるところでしょう。したがって、代筆問題の解決は論理的な思考では実質的に不可能と言えます。
 
 これらは全て個々の大人(教員や保護者)の倫理観と教育観に依拠しています。そのため、大切なことは常に「罪悪感」を持ち続けることです。
 
 本来であればどのような課題、どのような状況であろうとも、生徒が1人で、全て自力で書くべきです。そこにアドバイザーやサポーターとして大人(教員や保護者)が介入すること自体が「不純」なのです。それは受験小論文・入試小論文の状況を鑑みれば、よくわかることだと思います。受験本番に小論文が課されていたら、生徒は誰にも頼ることはできません。全て1人で考え、全て1人で書かなければなりません。それが本筋です。したがって、生徒も大人(教員や保護者)も、その本筋を見誤らないことが大切です。しかし、上記した通り、ここには構造的な問題が存在します。本筋を見誤らない、というのは単純な話なのですが、その実現は意外と難しいものです。

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 皆様、いかがだったでしょうか。生徒/大人/組織が絡み合った構造的な問題についてお話ししてきました。これは深堀するともっと色々なことが言えます。例えば、教員の承認欲求の問題です。代筆をしてしまう先生の多くは、この承認欲求をこじらせています。いわば、生徒から好かれたい一心で代筆してしまうのです。では、なぜ一部の教員は承認欲求をこじらせてしまうのか。この問いには様々な要因が考えられます。しかし、この話は、もはや小論文の話ではありません。そのため、ここで論じることは控えたいと思います。
 
 次回は今まで研究ノートという形で、いわばシリーズものとして投稿してきた「まとめ」となるお話をしたいと思います。様々な話をしてきましたが、「小論文とは何か?」という問いの答えをお示ししたいと思います。初回の問いに戻ります。ご興味ございましたら、是非お読み下さい。では、また!

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