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うまく笑えないわたしは、お笑いライブが好き

どんなものでも、好きな人・嫌いな人がいて、「前は好きでよく観ていたが、今は前ほど見たくなった」といった事があると思う。

「この2つの現象は、なぜ起きるんだろう」と思っていたが、最近謎が溶けた気がする。


私は、お笑いが好きで、一時期は毎月やっている渋谷の劇場に観に行くほどだった。

お笑い芸人も好きだが、出待ちはしたことがなく、「お笑い芸人に会いに行く」という意味合いよりも、ただ"お笑い"を観に行っていた。

お笑いを観ているとき、
「あ、私ってこれを可笑しいと思うんだ。」
というあくまで自己の発見がしたいというのが潜在的な目的のように思う。

いつも同じ友人と二人でお笑いを観た。
この友人は、ゲラで、笑いのツボが浅いため、普段の日常の中でも私に感情を教えてくれる大事な友人だ。

この友人といつもお笑いを観て、友人のつられ笑いでも自分が感情が動くことに安心を抱いた。

好きなもの・嫌いなものとは、私たちに何かしらの感情を与えてくれ、"それ"に触れる前の自分よりも"自分"の解像度をあげてくれるものなのではないだろうか。

お笑いによって感情が振れることで、自分を教えてくれていたのではないか。



一方で、お笑いを観に行くことにはそこまで興味のない友人がいた。

中学の同級生で、同じソフトボール部に所属していた友人だ。「先輩モノマネ集」をふざけて披露するくらい、私の知る中で最も芸人に近い友人だ。

その友人は、そこまでお笑いに興味を示していなかったのも不思議だった。



今話した一連の事象が起きる理由が、最近わかった。

アリストテレスが、簡単に言うと
「人間は、人間を模倣したい生き物である」
と遺している。

つまり、私は、お笑いを観ることで、お笑い芸人を見て、生き方など何かしら模倣(真似)しようとしていたのだ。

お笑いだけに限らず、私たちは常に他者と自分を比較して、"今後の自分のあるべき姿"というものを無意識に探っているのではないだろうか。

というのも、お笑い芸人を志した背景は、暗い出来事から脱却しようとしてきたことが多く、「"お笑い"に自分自身が救われた」という人が多いことにも関係している。

オジンオズボーンの篠宮さんは、いつの日か見たインタビューで芸人を目指した理由を「ずっと笑っていたいから。」と言っていた。

何かしらの辛く苦い体験をした中で、笑いを大事にしたくて芸人になったという背景は、とても頷けた。


きっと私が無意識に芸人に惹きつけられていたのは、"苦しいときに笑いで対処してきた彼ら"を観て、彼らの姿を模倣して自分に取り入れようとしていたのかなとも言えるかも知れない。

逆に、お笑いにあまり興味を示していなかった"芸人のような友人"にとって「お笑いを観ること」は、当人にとってはある意味取り入れるべき情報でなかったのではないかと思う。

お笑いを好きでよく見るのは、"何かしらのインプットが欲しくて、自分に何か取り入れると同時に、模倣したいと思っているとき"とも言えるのではなかろうか。

そして、あまりお笑いを観なくなるときというのは、
"何か取り入れるよりも、模倣してアウトプットすることに専念したいとき"なのかも知れない。


人間の無意識のはたらきは、おもしろいものだ。

何かしら必要な情報が目に入るように、残るようになっているのかも知れない。



読んでくれてありがとう、ではまた!

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