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【エッセイ】ママが日曜の午後にぼうっとできるという意味

最近、気づいたことがある。自分の子育てにちょっと余裕が出てきていることだ。

こないだ、日曜の昼下がりにこんな小さな町でも「ジャズピアノ」の生演奏ミニ公演があった。いつも行き慣れている場所での演奏だったし、なんと田舎プライスのワンコインだったので、家族と行こうと思っていたら。上の子は友達と遊ぶ約束があって、下の子は「うーん」と渋い反応。行かないと言い出した。私は子供達にも生の楽器を聞いて欲しかったんだけど。まあ乗り気がしないんだったら仕方ない。

ならばと私と夫で行くことにした。突然できたsunday date。別に普段着で行ったし、1時間という短い間だったし、なんとはないんだけど。

会場のパイプ椅子に座ると、私たち以外はほとんどシニア世代。田舎のこういうカルチャーなイベントは大体こうだ。高い窓の外を見ると、トンビが自由にくるくる飛んでいた。平和だな〜と思った。二人できて良かったのかもしれない。子供と来ていたらこうはいれなかっただろう。何か様子が気になって、トイレに行きたくないか、暑くないか、寒くないか。暇して何かしてないか。神経がやっぱりそっちへいってしまうから。頭を空っぽになんかなかなかできない。

楽器の生の音は心地がいい。ジャズの演奏を二人でぼうっと聴くなんて、一体何年ぶりだろうと聞きながら考えていた。多分、帰国してきたばかりの10年以上前の話だ。まだ子供達がいない時。徳島市のジャズストリートに行ったのが最後だと思う。

そこで気がついた。子育てが11年を回って、ちょっと余裕が出てきたのだ。

およそ5年前に書いた、自分の好きなことが何もできなくて、どうにもならない、感情をどこへぶつければいいかわからないよ!という日曜の子育ての話。それが、一人歩きをしてtwitterで拡散されて、思いがけずバズったことがあった。世の中のお母さんお父さんたちの共感を、ものすごく得たのだと思う。でも、それが何か恐ろしくなって、その記事を葬ったのだけど、あの頃と比べるとだいぶ私の心にも余裕が出てきたんだなと改めて感じる。

10年経つと、物事の様相は変わる。そういうものなんだなあと思った。だから、今余裕がなくて子育てに詰まっていると感じる人でも、10年経てば(まああの当時の私にすれば、10年も!?待たないとダメなの!?と思っただろうけど)ちょっと変わってきますよ。と言いたい。

でもちろん、人っていうのはないものねだりの塊だから、子育てに余裕を感じることに対して感じる、寂しさも感じる。もちろんこうやって夫と自由に音楽を聴きにこれるなんて、もう本当にありがたいし嬉しいことなんだけど、同時に「あの時代はもう私には終わったんだな」と思う寂しさは大きい。

日々に翻弄されて気づかないけれど、こうやって物事はいろんな感情を含みながら、進んでいる。

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