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noteを書くとは「考える」ことだ。

2週間ぶりのnoteです。

それまでは、ほぼ毎日noteを書いていたのですが、毎日更新が途切れると、なんとなく怠けてしまいます。

どうしても、楽な方、楽な方に流されてしまう。

というのも、やっぱりnoteで文章書くのは、パワーがいる。

「なに書こうかな?」

「いや、ぜんぜん書くこと、思いつかないけど」

「じゃあ、書かなくていっか・・・」

となってしまう所を、「毎日更新」とか自分の中で一定のハードルを立てることで、なんとか書ける。

そういう意味で、noteを書く、文章を書くのは、「筋トレ」に似ている。

この2週間、noteを書かないでいると、なんか心にぽっかり穴が開いている感じもあります。

で、気づいたのは、文章を書くとは、「考える」ことだと。

noteを書くプロセスが、「考える」こと

「考える」って、大事と分かってるんですが、抽象的で捉えどころが無かったりします。

自分で「考える」のを大事にしたいんですが、なかなかできない。

考えているつもりで、考えられてない。

そんな状態が、このnoteを書いていない2週間。

なにか考え抜いたものを、文章にして書くのではなく、

文章を書くプロセス自体が、「考える」時間になっているんです。

まさに今この時間が、そう。

「考える」とは、自分なりの「解」を導き出すこと

「考える」とは何かというと、自分なりの「解」を導き出すこと。

「解」を導き出すのに、一番いい手段が「文章」を書くことだと思います。

なぜ「文章」かというと、文章であれば人に説明できるから。

Amazonの社内会議ではスライド禁止、箇条書き資料禁止。

「文章」ファーストで、会議が行われているそうです。

Amazonと言えば、世界を代表する企業ですが、この「文章」ファーストが、その土台となっていると思います。

会議がはじまったら、まず15分黙読。

この用意されている「文章」を黙読することから始まる。

いやー、そんな会議出たことないです。

でも、「文章」を用意する立場をイメージしてみると、しんどいなと思います。

だって、プレゼン資料とかであれば、デザインとかで多少ごまかしができるけど、文章にすると、ごまかせないから。

文章には、ロジックが必要。

考えから、解が導かれてないと、文章にできないんです。

箇条書きも、羅列するだけで何か分かった気になってしまうのですが、いざ文章で説明しようとすると、できないことって無いでしょうか。

箇条書きや図、プレゼン資料だと、読み手によって解釈が異なる幅が大きいけど、文章だとより正確に伝えられる。

noteから2週間離れてみて、文章を書く大切さに改めて気づきました。

自分が「考える」時間として、noteを書いていきたいなと。


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