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いつも答えがあるわけではない - 養老先生の言葉から(講演会と著書を通して)

先日、養老先生の講演を聞く機会に恵まれた。
子どもの状況を通して、「学ぶこと」や「多様なこと」とはどういうことか考える際に、度々養老先生のものの見方、考え方に行き着くことがあった。その考え方の中に、現代の情報が多すぎる社会の中で本質的に生きることのヒントをもらえている気がしている。

少し前に著書「ものがわかるということ」も拝読し、講演でいただいた生の言葉を通して考えたことを、書いておきたいと思う。


ものがわかるとはどういうことか

若い頃は、勉強すれば、なんでも「わかる」と思っていた。

「ものがわかるということ」まえがきより

本の冒頭は、このような書き出してはじまる。
私もそのようにして勉強をしてきた人の一人だし、勉強を必死にしていた頃は、勉強=わかる、なのだとなんの疑いもなかった。

一方で、わかることとの距離感は、確かにある。

養老先生は、著書の中でいろいろな角度から「わかる」ことについてお話しされている。いろいろな言葉で表現されているけれど、私なりの理解で言うと「わかる」の中には複数の種類のものの見方と、ステップがあるのだと思った。

例えば、「体を伴って理解する」こと。
生き物について知識として知っている(どこに生きている、どんな特徴がある)ことと、それが実際の世界でどのようなものとして生きているかと言うこと(触った感じ、寒いところ・暖かいところ、鳴き声、色味、など)などを合わせて体験することで、本当にその生き物を理解できる。
(余談だが、養老先生は虫が大変お好きである)

なお、では知識がダメなのかというと違っていて、知識も土台になると思う。図鑑などで知ることがなかったら、疑問に思うことも、触ってみたいと思うこともない。土台があると言うことは大事。

こういったことを思う時、やはり、今の学校システムが子供の本当の学びと乖離してしまっているという想いに当たってしまう。
知識をつけて、体で覚えることがわかることなのだとして、そこに考える時間が含まれるはず。学校で体験授業も実験もあるといえばあるけれど、そこには必ず一律の答えがあり、深く考える子供であればあるほどわからないことから抜け出せなくなって、スピンアウトしてしまうのではないか、と心配になる(長男はまさにそんなタイプ)。

わかることを考えた時、見えてくる人や世間との付き合い方

わかること、について、勉強や学習のことだけでない。人や世間をわかるということについても触れられていた。なるほどなと思った。確かに、人や世間についても「わかる」という言葉をよく使う。

養老先生の言葉を借りると、「理解する」「わかる」ことと、「意味」(「理由」といってもいいと思う)を結びつけがちだが、そもそも意味のないものの方がほとんどを占めている、と言う。
人も、自然も、実に多様で、全てがいつも意味があるわけではない。しかし、現代ではその全てをわからないと意味がない、という無意識があるから、いつも苦しいのかもしれない。
なんでもググれば答えが出てくる世界。答えがあること知らないうちに前提としているようで、怖くなる。

わからないことが当たり前、から始めることが、大事なのかもしれない。

今必要なのは、生きる力

養老先生の講演会は、テーマは「子どもの教育を考える」だった。お世話になっているフリースクールを経由して、参加させていただいた。面白かった。「答えがない」と言うことが答えのような内容だった。まさに養老先生が仰っていることをそのまま表している内容だった。

私が得たことをあえて言葉にすると、それは「生きるちから」と言うものが必要なのだということだ。これがまた、何をどうすれば、というものではない。例に、天災をあげて説明されていたが、シミュレーションのきかない、想像もできないようなことを、なんとかする力、だと考える。

なんとかするには、これまでの知識を総動員するしかないが、これまで例もないわけだから、仮説を立てたりやってみて失敗したりするしかない。
ぶつかって、考える。それを自分で、ということなのではないか。(講演では、自助、という言葉を使っていらした)
自分で、ということがポイントなのだと思う。

学校に行っていない子供たちとの毎日の学びには、答えがない。答え合わせがないから、不安になる。決められたやり方に乗っていてうまく行っている(あるいは行っているように見えていること)も安心ではあるけれど、それで幸せな大人になれるかは絶対ではない。
どのみち我が家はスピンアウトしてしまったので、今は、自分で捻り出した学びの毎日の失敗を、最大限喜びたい。

勇気をもらった。


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