村田沙耶香『コンビニ人間』を読んで

「白羽さんの言うとおり、世界は縄文時代なのかもしれないですね。ムラに必要のない人間は迫害され、敬遠される。つまり、コンビニと同じ構造なんですね。コンビニに必要のない人間はシフトを減らされ、クビになる」 (pp.72).Kindle 版.

この文章を読んだ時、私ははっとした、物語全体を通して対比されている「現代の日本社会」と「コンビニ」の構造が、この主人公の言葉を通してはっきりと言語化されていると思ったからだ。

この小説を読んで私が感じたのが、無機質なコンビニを有機的に捉え、その中で無機質に「コンビニ店員」としてだけしか生きていけない私が存在するという絶妙な違和感だ。
コンビニ店長は変わっても、オープン当初から変わらずにあり続ける「私」が働くコンビニは、例えば不審者が来た時に、それをあっけなく排除し、そして排除したあとは、まるで何事もなかったかのような時間が流れる。異物が混入したら自動的に吐き出す仕組みが備わっている植物のようである。そういった意味で、本書で描かれているコンビニに有機的な部分を感じた。
そして一方で、そこで働く「コンビニ店員」は、同じコンビニの制服を着たら「コンビニ」の中の部品の一つとなってその有機的なサイクルに飲み込まれていく。ただ、どんな人がやっても、マニュアル通りに同じことをこなしている限り、コンビニ店員は個としては意識されることは無い。非常に無機質である。

この有機的なコンビニで働く無機質な「私」という構造に既視感を覚えながらずっと読み進めていた。この物語の中で初めてみた構造ではなく、私がずっと見てきたもののような気買いしていた。

そこで、冒頭の台詞に出逢うのである。既視感があったのは、この物語で流麗な文で表されている「コンビニ」という社会が、あまりにも今の日本社会に似ていたからであった。
この2つが似ている理由として、私が実感した例を挙げて説明する。
私は今、大学4年生であるが、ちょうど4カ月ほど前に就職活動を終えたところだ。そこで実感したのが、「採用側の企業は本当に私のことを見ているのだろうか」ということ。私たちは同じ黒いスーツに身を包み、同じような髪型で、同じような話し方をし、面接官との相性で採用されていく。私の場合、幸いにもしっかり私の話す言葉を聞いてくれる企業と出会えたのだが、全員の就活生がそうとは限らないし、そもそも、就活生が自分の言葉で話せるような教育は、今の日本ではされていない。小学校からずっとレールに乗って進んできて、社会に出る時にいきなり「自分について説明しろ」など酷な話である。
そんな形で、同じスーツ、同じ頭の就活生は、そのまま新卒社員となり、同じような研修を受けて、代わり映えのしない日本社会へと放出されていく。日本社会という有機的な生き物を支えるための一つの無機質な駒として、社会へ出ていくことになる。

なぜアメリカ発祥のコンビニというシステムが、アメリカで爆発的なヒットを生まず、ここまで日本でヒットしたのか。その理由が、日本に「新卒一括採用」というシステムが存在することとリンクするような気がしてならない。
無機質な、マニュアル通りの「個」を大量に再生産し続けることで成り立っている社会。それが日本人の無意識な感性と一致したからこそ、コンビニは他でもない日本で、大ヒットしたのではないだろうか。

コンビニ的社会。コンビニ的日本。ある程度まではそれでよかったかもしれないが、今、この世界で、日本人は無機質な「コンビニ店員」であり続けていいのだろうか。マニュアル通りに全てをこなしていって、何も考えない日本人は、世界で戦っていけるのだろうか。
私は「コンビニ店員」であることに魅力は感じない。有機的に生きていきたいと思う。そう公言して、この評を閉じたいと思う。

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