見出し画像

稻草人救火

大きな事件や疫病のニュースがあるとき、それを報じるものの中に「言葉足らず」や「語弊」や「全くの誤報」が混ざることがある。精度はどこもいつでも(または誰でも)一律というわけではない。
このほか、そもそもの情報公表元が錯綜していて、既報が新しい事実で塗り変えられることもある。

プロが誤って報じる他にも、例えばSNSでもデマが拡散されたりする。承認欲求やステルスマーケティング、フォロワー集めで意図的にデマを流す人もいるようだが、中には聞きかじった中途半端な知識を善意で流してしまう人もいる。

それは「それ」だ。
相手を十把一絡げのかたまりとして、たとえば「○○な人」や「○○という職業」として叩くのは、あまりによろしくない。不要な対立と混乱を招くだけだ。
間違いは、具体的に「誰の」「いつの」「何が」「どう違っていて」「正しくはどうなのか」的確に指摘する必要がある。そして、指摘すべき相手に直接届かなければ意味をなさない。正しいことをするならば、正しい方法で行わなければならない。
残るのはいつだって、派手なパフォーマンスではなく、地味で面倒臭くて丁寧な仕事だ。

アジテーションは強い。炎上も同じだ。強いが、正しさは殆ど残らない。どれほど知識と正義感があっての行動であろうと、本来の趣旨からは離れていき、炎上したという派手な事実と的外れな印象だけが残ってしまう。

その正義は本当にどの角度からも「正しい」のか?正しさはたったひとつの立場や肩書きが占有しているものだろうか?

病気かそれ以外かに関わらず、大きなニュースがあった時は「大きい主語」に気をつけてほしい。
それは見る目も知性も曇らせてしまう。正確な判断から遠くなる。

以前の記事でも触れたがまた書く。「報道はすべて信用するな」という医療者による言説を度々見かけるが(数名/名は伏せる)、あれは逆に正しい情報からも遠ざける上、考える機会やその材料すら奪うため非常に良くないと思う。デマ拡散を誘発しかねないとすら思っている。自由を一方的に奪えば不信も招きかねない。「隠された真実」系デマへの危険もある。
世の中のニュースは医療だけではない。情報遮断を勧める医療者は、その立場ですべてのイシューを遮断する権限を持つのか。それは医師免許に含まれるのか、または誰から与えられたのか?
それに、「世の中にはトンデモ医師がいるから病院には行くな」と言っているようなものだ。真面目に取り組んでいる人に対して、失礼きわまりない。

またこれも繰り返しになるが、情報を得たい人がそれを禁じられた時、カリギュラ効果でさらに怪しい情報(トンデモ業者によるSNSや動画など)に手を出さないとは限らない。情報を得たいという欲求自体は、そうそう簡単に消えてなくなるものではないのだ。
そうして手に入れた怪しい情報は、キャッチーで、悲しいくらいによく広まる。訂正したところでカバーしきれない。その責任を誰が背負うのだろう。

その時点で最も正しい情報をどう得るのか、その他の情報をどう取捨選択するのか。どのジャンルにおいても、結局はそれこそが肝になる。

よく「どの報道も同じニュースで煽っている」などという言説が飛び交うが、「どの機関もそれを流しているかどうか」をチェックしている時点で「否定の目」になっていることに気付いた方がいい。

テレビやラジオであれば、「キャスターの○○さんが好きだから」とか「出演者の○○さん可愛い」とか、普段ならばそういう他愛のないことである程度「固定化」して見てはいないか?
紙面ならば読みやすさや、購読状況もあるだろう。定期購読をしていれば尚更だ。
同じ情報機関を見る・読む習慣があり、それに沿って情報を得る人は少なくないだろう。
だからこそ、他が報じようとそれは本来「関係のない」話。それぞれが報じることには意味がある。

また、わざわざ書くほどのことでもないとは思うが、複数の情報機関が報じるということは、その国が高度な民主主義のもとにあるというひとつの証でもある。所謂平和ボケなどしていれば気付きもしないだろうが、つまり情報統制下にはないということだ。(平和ボケが良い言葉ではないのは承知しているが、換言する術が見つからない。)
イシューによっては、視点の違いから見えてくるものや、発覚する事実もあろう。

ならば、混乱状態の中では何故「そこに気付かない」「そうは思わない」のか。もしくは、何故受け手がひとつのニュースをどこまでも追い掛けてしまうのか。
複数ソースを得るためではなく、バイアスや煽動に突き動かされていないか。それは本質とかけ離れていないか。
ニュースの本筋とは関わりのないところを延々と非難することで、検索ワードが汚染されることに考えは至らないのか?過去の災害からの教訓は、令和になっても活かされないのか?

立場に関わらず、大きな主語で発信する人は、以降の信頼性を半分程度に見積もってもいい。
差別やカルトは大きな主語が大好物。デマはその手法をよく利用する。大きな主語に慣らされてしまうと、結果的にデマには踊らされやすくなる。
普段から、そうした論法を懐疑的に見る訓練は必要だ。騙されないよう、騙さないように。

情報を追いすぎると過度のストレスを抱える可能性がある。深呼吸をしたら、一度離れて落ち着いたほうがいい。

 
◇ ◇ ◇

往々にして悪意がある人は批判されようが非難されようがどこ吹く風だが、真面目な人ほどその流れ弾で致命傷を負う。味方をいたずらに減らす戦術など戦略的に有り得ない。
正しくあろうとするならば、正しくあろうとする別の立場の人間に目を向けて、ネットワークを構築するべきだ。
小さなスイミーのように。

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」