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ドキュメント'22

 深夜のスーパーマーケットは、何もかもが丁度いい。
 疎らだが無いわけでもない人の気配、脈絡なくプロモーションも関係なく流れる音楽、独りでいるようで誰かが見ているという事実。棚に溢れる色彩は余分な思考を遮る。考えるのはただ、栄養や取り合わせくらいのものでいい。
 客の少ないこの時間に買い物をするのは、人混みを避ける以外にもそこはかとない理由がある。

 どうやらまた持病が増えたらしい──医師から直接聞いたわけだし画像も確認したのだから「らしい」でもないのだろうが、確定診断を待つというのはこれでなかなか宙ぶらりんなのだ。
 一般的には「でもきっと大丈夫」という願掛けに舵を切るのだろう、だが染み付いた危機管理意識がそうはさせない。常に考えつく限りのパターンを想定する。ガイドライン、学会ウェブサイト、国立や公立の病院が患者向けに掲載している文書、論文・・・・・・時間は瞬く間に溶ける。
 確率はあくまで確率でしかない。前回だって、僅か数パーセントのカウントに入ってしまったのだ。楽観主義は反動が大きい。そして思考が渦を巻く。怖いわけじゃない、人間なんて所詮脆くて、明日をも知れない生き物だ。それくらいわかっている。
 静かに最悪の場合をイメージする。そうしながらスワイプする画面に、
 「次のチャンスがあるよね」
 の文字が躍る。次のチャンス。次の。
 思うが早いか、車に乗り込んでいた。音も景色も流す。流れていく。

 幾つかの野菜と豆腐をカゴに並べて、レジへと向かう。明朝はのんびりすればよかったのだ、パンを買うべきだったろうか。そう迷いながら。
 向こうから別の客、男女二人連れが来た。何やら返品で言い争っているが、男性の様子がおかしい。息つく間もなく繰り出される罵倒、明らかに呂律が回っていない。
 泥酔?汚言症?認知症による人格変化?または感情失禁?
 弾かれたように、素早く思考が回りだす。そしてそんな自分を諫める。ちらと見やった女性は、明らかに対応に慣れている。ああ、これは彼女にとってもう日常なのだ。そして、その日常はわたしに消費されるためにあるわけではない。
 店内にこんなにいただろうか、という人数の店員が集まる。交錯する視線。わたしのカゴから会計用のカゴへ、リズミカルで無機質なレジスキャンの音。

 素早くエコバッグに詰め、店を後にする。まだ響き渡る罵倒、後ろからそれが近づき追い越していく。足のふらつきはなかったし、身体的加害は見受けられなかった。それだけが僅かに救いだった。去っていく自転車。わたしに為すべきことも、出来ることも、何ひとつありはしないのだ。
 来ぬものをただ待つような無力感が、ぬるい空気の中に漂う。なんて夜だ。こんなはずじゃなかった。
 
 車のエンジンをかけると、Kan Sanoの「おやすみ」が流れた。なんというタイミングだろう。独りつく溜め息に、ほんの少しだけ声が混ざった。おやすみ、見知らぬ人。あの人に、寝ている時くらい安寧があればいい。
 

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」