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置かれる、それとも

 「置かれた場所で咲きなさい」という書名が、時々インターネット上で議論を巻き起こす。この書名がひとつの名言として切り離され語られるときの、何割かの受け手の痛みを思う。
 しばしば努力と紐付けれて他者に向けられるそれは、放った人の意図や声色によらずまろやかさを急速に欠いていく。

 咲ける場所にあることは当たり前ではないし、どうしても咲けない場所もある。どうしても咲けない場所があることにすら気付かない人もいる。
 置かれたのか、置き去りにされたのか。自由なのか、軛に阻まれているのか。隔たりは大きい。

 出来るだけ努力して、また視点を変えて咲こうとする前向きさはいいと思う。
 だがそれは自分が内なる自らに呼び掛ける言葉であって、他人に求めるものではない。そして自らに対してであれ、無理をすれば壊れて枯れてしまう。どこまで掘ろうと水分がない場所かもしれない。
 見極めるのが難しい人たちにこそ、心を寄せていたい。

 たとえば、DVや虐待は相手の選択肢すら奪うもの。置かれた場所で最善を尽くすなどということは勿論、そこから逃げ出すことすらも難しくなってしまう。
 精神的な病によっても、行動力や判断力が失われてしまうことはある。大きな病気や災害、経済的困窮もそう。学ぶ意欲さえ削がれる、そんな中にある人だって全てを振り絞って「つとめて元気そうに」振る舞うかもしれない。
 バックグラウンドを知ることなくポジティブであれと投げかけることは、相手を逆に追い詰めてしまう可能性があるのだ。

 コントロールも理解も追いつかない、どうにもならない理不尽はこの世に満ちている。それに気付かないことは、ひとつの大きな幸福だ。

 特に若いうちの恐れを知らぬポジティブさは無尽蔵の輝きを放っていて、それ自体は大変素晴らしいことだと思う。
 だがその無尽蔵の輝きがどこかで誰かの目潰しになってしまうことはある。振り返ってかつての自分を戒めにしながら歩くようになるとき、幾つもの言葉が紅葉のようにがらりと意味を変える。不可逆に。
 経験を重ねていくと失われてしまうもの、若年者特有の万能感は、後になって取り戻したくても決してかなわない。
 
 どうにも咲けないと打ちひしがれているときに必要なのは、書籍から一節だけ抜き出した言葉ではなく、その状況を美化することでもなく、あたたかい眼差しとあたたかい手かもしれない。咲きなさいでも逃げなさいでも足りない、まず周囲の理解と専門家が必要な場面もあるはずだ。
 完全に理解したふりをせずにただそっと寄り添うことは、時に言葉よりも雄弁だろう。その穏やかな沈黙を、わたしはきっと優しさと呼ぶ。
 

 ◇ ◇ ◇
 

 いちばんつらく苦しい局面にある人々にとっては、誰かの「いいこと」が命を揺るがす刃や鎖になってしまうことも。
 誰しもみなままならぬ日々を生きているからこそ、toxic positivityによって他者へ無邪気に毒を盛らないように、陰と陽両面でやわらかくありたいものです。
 

 

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」