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そこに含まれる

 キャップアクションの最終日に、滑り込みで間に合った。フォロワーさんの投稿で気がついたのだ。
 キャップアクションとは、ペットボトルのキャップを写真や動画で撮影してSNSにアップすると、1投稿につき1人分のワクチンが寄付される仕組み。
 参加者に金銭的な負担はなく、撮影と投稿の手間だけがかかる。SNSが使えれば、生活状況を問わず参加できるタイプの社会的アクションのひとつだ。

ハリマロンかわいい

 こうしたSNSによる寄付には、がん研究者支援のためのdelete Cや、貧困支援のおにぎりアクションなどがある。そのたびに、何年も前から参加している。

 学生時代からずっと、集団献血にすら寄与できなかった。生まれついてドのつく低血圧で、さらに大学に入る頃までは体重も基準を満たさなかったからだ。血圧に関していうならば、普通の人ならば動けないくらいの数値でも歩いたりしている。体調が悪くなると、普通の人ならばショック状態に陥る数値にまで下がってしまう。
 だから、血すら提供できなかった。抜いたところでまた体内産生されるものなのに。

 団体献血で友達が教室をさざめきながら出て行くとき、わたしはいつもそれを自分の席からぼんやりと眺めていた。献血の重要性を語られたあとで、ああ、無力だなあと。勿論クラスメイトはみんなわかっているから、揶揄したりはしない。
 ただ、その姿ともらってくるノベルティが妙にまぶしかった。そのキーホルダーが欲しかった。デザインがどうのというより、みんなが戻っても、小さな社会の中でひとりぽつんと取り残されたままのようで。

 がん発覚前、あんなに何を食べても太らなかったのに、急激に体重が増えだした。しかも体調がすぐれず、食欲も落ちているにも関わらず。
 これで初献血かとわくわくしていたら、がんがわかった。なんだよ。しかも低血圧由来の胸痛発作も生じた。ドナーも無理か。

 誰にでも参加できるアクションの存在は、人によっては救いだ。わたしにも参加ができる。
 そうしたものの参加を表明するとき、DMなどで中傷する人もなかにはいる。
 ただ、それなりの病気を患えば実感すると思うが、役立てること自体がありがたい。社会にリンクできる。
 役立つことを偽善という人は、自分がいかに幸せかわかっていないのだと思う。わかっていないことが、ある種の幸せなのだ。するもしないも自ら選べて、取り残されたりはしないから。

 わたしはわたしが選んで参加する。どこかの誰かの役にたつ。「キャップアクションをしました」でもたらされるワクチンが誰かの命を救うなら、お手軽であれ、それはれっきとしたアクションだと思う。
 何らかのきっかけでこの国が困窮を極めれば、アクションの受益者はわたしたちだったかもしれない。となりにいる人、家族、友人が受益者だったかもしれない。
 それが広がらなかったら、生きていられなかったかもしれない世界線がどこかにあるということだ。

 想像力は、つとめてふんわり流れるように使われるといい。もし自己満足と言われてもいい、それが小さかった自分への救いにもなる。ありがとうの気持ちで、写真を撮る。
 

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」