「逃げ恥」という解呪
逃げ恥新春スペシャルを視聴。これが頗る良かった。
リアルタイムツイートに補足しながら、以下感想まとめ。ネタバレあちらこちらあるので、まだの方はスルーで。
ざっくり序盤におこること
序盤からみくりが妊娠、そして伯母・百合の子宮体がんがわかる。
平匡に「サポートする」と言われたところでみくりは感情をぶつける。一緒に親になるのではないのか、父親はサポートなのかと。
育休取得の平匡は、規定どおりの休みをとるのに嫌みを言われる。嫌みを言うのはルッキズムとセクハラにまみれたプロジェクトリーダー灰原。
シングルの百合には、病院の付き添い問題も浮上する。
リスクマネジメント
みくりの職場では「妊娠出産の順番待ち」という悪習が描かれる。
そんな中でみくりは妊娠が発覚し、理不尽さをおぼえながら頭を下げる。
仕事を休めないということ自体が異常、これは病気や怪我も一緒。平匡の元上司であり、平匡が働く会社のプロジェクトに参加する沼田は、そこをしっかり灰原に指摘した(推せる)。しかもメンツを潰さない言い方で(さらに推せる)。
誰がいつ、急にそうなるかはわからない。だからリスクマネジメントが必要で、それをこなすのが上司の責務。誰かが抜けたら回らない組織であってはならない。
そして、福利制度があるならば使えるのは当然のこと。支えていただいてありがたいな、という気持ちとは両立する話。
断絶からの解放
ドラマにおいて「わかりやすい悪」は、カタルシスをもたらす装置として大きな役割を果たす。
「勧善懲悪」は、悪が倒されることでスカッとする。倒されるための悪。
これに対して逃げ恥には、根っからの極悪人がいない。そして同じ野木作品の「獣になれない私たち」にも、善悪の対立構造がない。
前述の「ルッキズムとセクハラにまみれたプロジェクトリーダー灰原」はどうだろうか。
灰原に「劣化」という言葉の使い方について疑問を投げかけた平匡。筋肉が落ちたのは劣化か、と問われて動揺する灰原。
これを機に、欠席裁判よろしく、本人のいないところで灰原憎しの声が上がる。続々と集まる人々。
そこへ灰原があらわれるが、祭り上げられた格好で注目を浴びる平匡は、その場で彼を責めたりしない。そもそも、問うべきことはもう問うているのだ。
産休取得についても、沼田がカタを付けた。それ以上に責め立ててスポイルするようなことを、この脚本は決して行わない。
後日(ドラマオリジナル部分)コロナ禍でテレワーク推進を主導するのは、その灰原である。リーダーとしての資質が全くなかったわけではないことが、ここでそっと回収される。平匡に「いてよかった」と感謝されるシーンのあたたかさ。
誰しも間違えることはある。良くない一面が、その人のすべてではない。そして人は、間違いから学ぶことができる。多面体である人間は、光のあたり方ひとつで見え方が変わる。
悪と決めつけて断絶するという「見え方固定フィルター」からも、逃げ恥は見る人を解放へと導くのだ。しかも、短い時間の中で。
織り込まれる多様性と呪い
友達夫婦のようなみくりの実家、亭主関白な平匡の実家、男性同士の沼田のところ、女性同士の花村さんのところ、結婚を選ばない風見、専業主婦なのかな日野一家(今作ではなく前作での登場:また見たかった)、離婚を経てシンママのやっさん、契約結婚から共働きの婚姻家庭に移行するみくりと平匡。
どの生き方も肯定的に描かれていたのが印象的。
亭主関白な平匡の父に、平匡がキレたりするわけでは決してなく、もう時代の流れが違うんだよとそっと自分たちの考えを伝えるところにグッとくる。対立していがみ合うのではなく、穏やかに伝える。
本当は家電が好きな父親像が、そっと描かれる。
家電に興味がある、調理家電に視線が向けられ、その視線がそらされる。そのわずかなシーンに意味があると思う。
平匡父もまた、平匡と似たような呪いに苦しんできたのかも知れない。
それまでの生き方を全否定するのではなくて時代が変わった、つまり、もう好きなことを好きと言える。
咲く花、二輪
百合に恋していた同性の同級生・花村のストーリーは、もう少し見たかった。仮に二夜連続ならば看護師という設定も後半に活かせただろうし、沼田・梅原カップルのように関係性が描かれたらいいと思った。
当然あの尺で全部やったら散らかってしまう。いつかスピンオフがあるといい。
百合は恋愛も結婚も、そして子どもも望んでいなかったわけではない。ただただ、男社会を強く生き抜くために仕事に没頭し、機会を失っていっただけだ。
子宮をうしなうことについてのセリフは、どこかで望んでいた「もうひとつの未来にいる自分」という呪いへの訣別の言葉でもあるように聞こえた。
花村は百合とは、ある意味では対極にいる存在だ。対極にありながら、心の痛みを分かち合える。そして、伝統的価値観にとらわれない幸せを歩もうとする意味においては、きっと同士なのだろう。
ドラマを見ていて思い出したことがある。昔、女性に告白されたことあるけれど、嬉しかった。
気持ちには応えられないけれど、自分のことを見ていいなと思ってくれる人がいるというのは、とても素敵なこと。
未来への眼差し
平匡みくり夫妻の家庭では、名前と本人の未来についても言及があった。
本人の性自認がどうなのかは、出生前にはわからない。だからどちらでも通用する名前を、という考え方だ。
最初から意識した名付けをするという脚本は、性のダイバーシティを強く印象づけていて先進的。勿論、現実には様々な理由のもと改名は可能である。例えば名付けはこれがトレンドだとかいう極端な持ち上げ方は、劇中ではなされていない。
物語は現在進行形のいまへ
ドラマオリジナルで現在進行形の現実を織り込んできたのは、もう一度それぞれが見つめ直す機会にしようということなのか。
みくりが医学的情報を検索するにあたり、まず学会の発出を見たのはえらかった。小さいけれど大事な部分だ。そのあと他の情報を見て混乱するところまで含めて、インフォデミックの描き方が上手かったと思う。
社会的なニュアンスの強い、でもキラーコンテンツである「逃げ恥」だからこそできることを逃げずに見つめている気がする。
「劣化」というワードにしても、規定にあるはずの権利の話にしても、平匡と父の話にしても、呪いとそれを解くストーリーが上手く織り込まれている。
男性だからとか女性だからとか、性自認がどのようであるかに関わらず、つらいときはつらいんだよというメッセージが受け取れる。
それはまさにいま、つらいのにつらいと言えない人が多いこの時に効く、解呪の魔法なのかもしれない。
毎度このドラマの脚本には唸る。よく練られていて、その裏側には丹念な取材と思考があることが読み取れて、本当に素晴らしい時間だった。
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」