惜しみなく「 」奪う
自嘲気味に書くならば、外から見れば多分DCISサバイバーのわたしは「がんサバイバー」としては「宙ぶらりん」で、「幸せ」で、「軽くて何より」だ。
そういう節はあるだろう。わからないとは言わない。
・・・・・・比較するならば、の話だ。
胸を全摘「するだけで」済んだ、補助療法を「しなくて済んだ」と言われ続けるのだろう。命「まで」はとられなかった、その最悪の事態と比較するならば、どこまでも有りの儘は奪われる。治療と向き合うことを選択した、ということやその裏にある様々な事情はマスキングされる。
わたしはといえば、比較などというお仕着せの良かった探しなど、別に欲してはいない。そうしなくても歩ける。
どのみち、がんは奪ってゆくものだ。かつての体力も気力もまだ戻らない。特別気にしてはいないものの、傷のない身体ではもうない。
だが事実を淡々と眺めること、その有りようも、度々奪われかける。
比較するならば、がんにならなかった場合に。
または、周囲もがんやその他の病気にならなかった場合に。
自分の病気を誇大に捉えてはいないが、殊更矮小化されるいわれもない。
サバイバーになってから何人も見送った。インターネット上の知り合いではない、元々つながりのある、リアルの人間関係だ。
惜しみなく奪っていく。しかも、最近はこんなご時世だ。さようならもまともにできやしない。
奪われながら、「あなたは良かったね」という慰めらしきものと「かわいそう属性」が付与されていく。相反したそれらにじわじわと侵食されないように、ただ悲しみを悲しみにしていられるように、胸の奥底で抗う。勝手に紐付けられたくなどない。
そんなふうに表層で利用されたくないし利用したくないのだ、失った人たちを。
がん以外の病気との付き合いも続いていく。興奮することは極力避け、辛いものや消化の良くないものは食べられず、首をがんがん振ることはできない。激しいスポーツでへとへとになる自由もない。
できないことを数えることの、なんという虚しさよ。静かにたおやかに、できることを見ていたい。
惜しみなく奪うなら愛がいい、有島が言ったように。奪いあうことで何物も失うことはなく、ともに満ち足り、ただ自己が拡張されてゆくならば。
奪うにも作法が要るのだ。多分。
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」