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星降らない夜

 ふたご座流星群が降り注いだ夜、少しだけ外に出てそれを眺めていた。幾つもの星が流れては消え、そのあまりの儚さに祈りを唱える時間すらない。
 美しすぎて、ふと思った。こんな夜空に溶け込むように消え失せたなら、わたしのためになど誰も泣いたり傷ついたりしないのだろうかと。勿論これはイメージの話だ。別に、希死念慮があるわけではない。
 
 いつもどおりのルーティンと、いつもどおりではない何かをこなした後の夕刻。かかってきた電話は父の病理検査結果を伝えるものだった。
 こういう時、検査の数値とリスク評価のスコアで色々察してしまう自分がひどく嫌になる。ああ冷血だな、と思う。もっと取り乱していいはずだ、でも思考が先に動き出してしまう。
 自らのがん告知の時もそうだったように。
 
 こんなこと、終わりにしてくれてよかったのに。
 
 「神は乗り越えられる試練しか与えない」だけを引用する人はたくさんいる。
 でも人の耐性を見て選んで「ほらやれできるぞ」などとわざわざ試練をぶつけてくるのならば、神は相当に性格が悪い。
 逃れる道をも備えていてくれる、まででひとくくりなのだ、あの文章は。
 それを理解しているかどうかで、使い方や意味なんて全然かわる。しかも聖書由来だと知っている人はどれくらいいるのだろう、もうクリシェのようになって久しいけれど。

 父はこの数年にわたり、まさに厳しい試練を乗り越えてきた人だ。もう穏やかな日々があっていいはずだった。それなのに。
 神がいるというならばわたしは問おう、その神の選択は何ゆえかと。
 星降る日のわたしが抱えたセンチメンタリズムを叱りつけたい。抑えていることがどれほどあったとして、他人のこころなどおまえ如きがはかるなと。

 星降る夜はたくさんの人が空を見上げる。ただ、星降らない夜だってそこに星は在る。祈りだって、願いだってある。
 光のあたる部分だけが、物事のすべてではない。見えているわたしと、内面のわたしも違う。星降らない今日のわたしは、静かに祈るように一日をこなした。
 多分、明日も。
 

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」