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好きを語るということ

 ネットミーム化している台詞「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ」には前段があり、その「どうしてお互いの欠点探して傷つけ合ってばっかいるんだよ 百の罵声あびせるよりも好きなもん一つ胸張って言える方がずっとカッコいいだろ」がとてもいい。(出典は漫画「ツギハギ漂流作家」)
 好き語りをする人、嫌い語りをする人。コンテンツを取り巻く人たちには色々なタイプがいる。勿論それは必ずしも紋切り型ではなくグラデーションでもあるのだろうが、その「語り」について、つらつらと日々自らが思うところを書いてみたいと思う。

 「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ」本当にそうだと思っている。
 好きなものについて語るほうが、自分もまわりも幸せは増幅する。好きなものを語ることで同じものを好きな人が喜ぶほか、似たようなものを好ましく思う人たちが集まってくる。そこに充満していくのは陽のあたたかいエネルギー。人は言葉で思考する生き物、自らの言葉が纏うエネルギーにも影響されていくのだ。
 場が好きを語りやすくなり、また新たに語り手が増えるとき、新しい切り口や発見がもたらされる。ルーツ、つながり、再解釈。そうして好きなものは再び鮮やかさを増し、ものの見方が深まっていく。その見立てが正確か否か、正解か否かは別として、掘り下げていくことで楽しみ方の幅が広がる。
 これはジャンルを問わない。美術でも音楽でも文芸でも同じことだ。よしんば語られた「好きの方向性」や「解釈」が異なったとしても、それは好き語り文脈の中では「こういう見方もあるのか」という多様性として昇華されやすいだろう。

 対して些か厄介なのが嫌い語りだ。嫌いなものが合う人とはうまくいくといった言葉もあるが、食べ物や色の好みならまだしも、創作物に関してはとても難しい。
 「嫌い」で盛り上がる会話がルーティン化すると、いつも嫌いなものを探しては俎上に載せてしまうだろう。内容が批評や論評のレベルまで到達できれば意味もあるものとなるだろうが、それにはそれなりに豊富な知識が必要になる。この面倒さを乗り越えずに嫌いという印象だけにとどまると、単に表層で終わってしまう。
 思考というのは得てして癖になるものだ。嫌い語りの多くはその性質上掘り下げには欠け、多彩な切り口を持ち得ない。ファーストインプレッション、直感のみが重視されがちなのもよくあることだ。
 結果として、さらに嫌いなものを探すうちに世の中を冷えた眼差しで見るようになってしまう。心底好きなものすらも、他との比較でしか語れなくなってしまう。感性が閉じていく。
 さて、その流れで誰かの「嫌いではないもの」が嫌い語りの文脈に放り込まれたとき、その場は果たして上手くいくだろうか?好きなものの否定というのは、他者の楽しみを削ることでもあるのだ。対立を避ける人や流されやすい人ならば、その場は「そういう考えもあるのかも」「そうかなあ」などとやり過ごすかもしれない。だが、それが続くとどうだろう。

 ただ、嫌いなものをまったく語ってはいけないと考えているわけではない。自分がとても好きだからといってしつこく勧めるような向きには、「嫌い」ではなくやんわり苦手だとだけ伝えたことがわたしにもある。
 いちばんよろしくないのは、それを好きだと言っている人に向かって「嫌い、なぜならば」を力説することではないか。他人がどうあれ、わたしはそうしないと決めている。
 相手がそれを好きかも知れないから、嫌い語りはやめよう。これは配慮だ。
 相手がそれを好きだろうと私はイヤだから(または「わかってる人間だから」)嫌いを主張しよう。これはエゴであり、相手の感性や個性に対する否定だ。
 つまり対極。会話の軸や目線がどこにあるのかという話であり、他者の感性を尊重するかしないか、他者をコントロールしようとしているかいないかの差がここにあらわれる。

 そもそも、モノをつくる人間の殆どは、とりこぼしのない万人受けなどはなから信じてはいないだろう。支持があれば必ず不支持が存在する。不支持どころか届かない場所、なかなか取り上げてもらえない場所があることも重々わかっている。
 数多の厳しい目にさらされることを知りながらもミーティングし、作り、世に出す。商業ならばプロモーションがなされる。その過程では、たくさんの目と手と思考が関わっている。
 作り手や創作成果物に文句を言うことは容易い。しかし同じようにゼロからモノを生み出し、そのクオリティにまで持っていける人がどれほどいるだろう。しかも何をレファレンスとして何から影響を受けようが、出来上がったものは必ず唯一無二になる。本来的に他とは比べようもないものなのだ。殆どの場合、満足不満足は自らの好みに合うか合わないかでしかないのだと思っている。badではなく、not for me。

 語りにはdisり愛と呼ばれるようなものもあるが、実のところわたしはあれにはあまり感心しない。ごく閉じた仲間内ならまだしも、SNSのような開けた場所では「本当の評価」なのか「捻れた愛情表現」なのか、外側からは見分けがつきにくいこともあるだろう。つまり、アンチではないのに結果としてアンチのような効果をもたらしてしまう可能性がなくはないのだ。
 表現者本人アイコンにしているからわかるというのもどうだろうか、その人が口さがない印象と結びつかないとも限らない。他人がしている分には咎めたりしないが、自らが好き好んでdisり愛をすることは今後もないだろう。

 好き語りの上手い人には、好きなものが集まってくる。嫌い語りに慣れた人には、嫌いなものばかりが集まってしまう。どちらがより楽しくいられるか、まわりを明るくするのかを考えたら、後者という選択肢はわたしにはない。
 時間経過や追加情報でものの感じ方や受け止め方が変わることは、大いにある。自分の理解力が足りていないばかりに受け入れられなかったものが、少し未来の自分にはわかるようになることもあるのだ。その可能性までを潰してしまいたくはない。先々で育つはずの芽を摘むように「嫌い」の枠に閉じこめたくはない。
 好きなものを楽しそうに、嬉しそうに話す人の声や表情はライトのように場を照らす。まず自らがそういう人でありたいと願うし、うれしいものとより繋がっていたいとわたしは思うのだ。
 

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なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」