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杖は誰のものか

 時事メディカルのツイートから記事を読んでつらつらと連続ツイートをしたものを、ここにまとめておこうと思う。

 この記事がとても良かったので、Twitterの引用リツイートで紹介した。

スピードと自責心

 患者が著名人の「スピード復帰」のようなニュースに落ち込む理由は、外的要因も大きいと感じる。経過の非常に良かったケースをモデルとして「まだ調子悪いの?」「本当にできないの?」などといった声掛けが周囲によってなされることがあるためだ。

 このような声掛けが本人に向かって直接なされていなくても、経験上似通った発言を見聞きしたことのない人のほうが少ないのではないだろうか。たとえば、「あの人、まだ熱が下がらないの?」といった具合に。
 本人がいる場において他の人間の病欠などについて推測・矮小化して語られるとき、またはそうした過去の記憶から「自分も裏ではこう言われているだろう」という思考が働くことはあると思う。

 患者本人が焦らず落ち込まずに療養できるよう、広く世間の理解が必要だと考えている。「体調を理由として休むこと」への懲罰意識が減ることは、結果として早期治療や早期復帰にも繋がるのではないだろうか。

すれ違いは悪か

 周囲の声掛けと患者(当事者)の感情がすれ違うことについて、「周囲=理解のない悪い人」であるかのようにざっくり切り捨てるように勧めるような論調は、それはそれで危険だとも感じている。時々SNSでも見掛けるが、わかりやすく図式化した分断は果たして役に立つだろうか。

 回復途上にある、または機能や体力が戻らない状況の人間にとって、周囲の助けがあるかないかは大きな違い。それは繰り返す入院と療養の中で強く感じたことだ。
 すべてをたちどころに理解する人間はいない。しかしそれに反して「予めわかっているのが当たり前」という前提でいれば、頼れる人は少なくなっていくだろう。減点方式は孤立化リスクもあるというのがひとつ。

 もうひとつは、患者の「周囲の人」もまた動揺したり不安になったりするものだという点。特に生計を同一にしていたりなど、関係性が深いならば尚更だ。
 不適切な声掛けが単純に悪意によるのか「本当は良くなっていてほしい」願望からなのか。自らの身に起こるかも知れないという不安からか、または他人の苦痛に耐えられないセンシティブさから生じているのか。もしくは混乱して口走っているのか。様々なケースが考えられるだろう。幾つもの要素が糸のように絡み合っているかも知れない。この世の中は金太郎飴のようには均一ではないのだから。

 取り巻くコミュニティの大きさは、大小個人差がある。誰かの強い言葉(発信)に躍らされないようにしてほしい。人はそれぞれn=1なのだから。
 同時に、嫌なことがあるたび「でも○○してもらっているから」と黙って耐え続けるのもつらくてよくない。起こることの理由を求めすぎず自分を大切にすること、感情を抑えつけすぎないことも肝要だろう。勿論どうしても反りが合わないことはあり、その場合は距離を置くのもひとつの選択だと思う。

支えは誰のもの

 患者を取り巻く人々が不安や動揺にさらされた時、そこにも支えがあれば何割かの衝突は避けられるかも知れない。
 勿論そこにはリソースが必要となるだろうが──がん患者が告知後に相談センターやカウンセリング、精神腫瘍科を紹介されるように、心理職の関わりがもっとあってもいいようにも思う。

 よくある「患者は支えられる人、周囲は支える人」という紋切り型の見方は、わたしにはあまりそぐわなかった。病気や怪我があろうとなかろうと、人は日々様々な困難や悩みに直面しながら生きている。
 患者もその周囲にいる人も、支えが必要ならば互いにそれを受けられるのが理想的な在り方のように思うのだ。 

見えない杖

 これはがんに限ったことではなく、怪我や病気に広く当てはまることではないだろうか。健康に不安のない段階で、いつか自分が休養を必要とする時がきたら・・・・・・と想像してみることも大切だ。
 患者とともに歩む人々は「第二の患者」と呼ばれることもある。有り体のキャッチーな善悪二元論にとらわれて、互いに傷つきながら支える手を減らしてしまうことのないよう祈っている。
 数秒先の未来は誰にもわからない。見えない杖は、きっと誰のためにもあったほうがいい。

 

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」