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in or out

 別に何かを批判したいとかでは毛頭なく、ただ思ったことを書き連ねるだけなので、通り掛かりにふと目にした言葉が刺さったら申し訳ない。
 アクセスも多くないこの場所だけれど、そんな前置きが要るような気がする。

 「患者さんは学んで賢くなりましょう」
 時折目にするこの言葉に、入退院がひと段落して以来ずっと僅かな違和感があった。感染症禍が一進一退するたびに、その違和感が増していく。その理由を言葉にしたら、棘になってしまいそうな気もしていた。

 患者になってから、学ぶ。冷静に?まして、入院や手術が必要なときに?医療情報に触れる機会のなかった人でも?あなたは賢くなれ、つまり「今」は?
 そしてそれは見方によっては、病める者への「アウトソーシング」ではないの?

 元々それなりの知識があっても様々な選択や準備に追われるのは間違いなく、焦ったり迷ったりしてしまうのは当たり前だと思う。学ぶだけの余裕が誰にも残されているとは、ちょっと思えない。腰を落ち着けて学べない時のこと、慌てて学ぶべきものを間違えてしまうかもしれない。
 一番学ぶことが必要なのは患者「になる前」の段階で、つとめて冷静な時によく考えシミュレーションすることで「少し楽になる」のではないかと思うのだ。

 昔少しばかり関わり合いのあった医師は、まさにそういう発信をされる方だった。「賢くなりなさい」とは決して言わず、かわりに病院の敷居を低くすることに大変心を割かれていた。
 病院は身体のお困り事を気軽に相談出来る場所。日常では見かけない大きな検査機器は、それぞれこのような目的のもの。だから怖がらないで。
 そんなところから、丁寧に。

 自らの業績ではなく、検診の大切さを。時事ニュースではなく、専門家としての話を。テレビで、新聞で、そうしたインタビューを通して。またはイベントを通じて。当たり前のことを、明るくわかりやすく。時に楽しく、やわらかく。
 常に、一番遠くにいる方々へ向けて。

 やさしいものが最も難しい。優しい、そして易しいもの。異なる分野で生きている人々と目線を合わせる。
 すごい仕事をされていたんだなあと、振り返っては感じ入る。あちらはわたしのことなどもう覚えてはいないだろうけれど、わたしにとっては素晴らしい経験だった。換言するならば、生きた学び。学びはそこに、確かにあった。

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」