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Ein Marsch voller Heiliger

 祖父母は、がんで旅立った。大切な人たち、かつて交わった人たちが次々にがんに罹り、ある人は治り、また別の人は亡くなった。これが続いた。気付けばサバイバーだらけの中、わたしもがんに罹り、治療を終えて今は経過観察だ。
 がんと一口に言っても、様々な違いがある。一括りになどできない、多様な病の総称みたいなものだ。見つかった時期、個人差、たくさんの要因があり、それぞれ治療も経過も違う。

 人間がそれぞれ違うのと同じように、がんもまた、違う。

 普通に生活を営む、ありふれた日常を生きる人たちが、ある日がんを告知される。告知の前から身体をひっそりと蝕んでいたがんが、検査を経てはっきりと認識される。
 いま、ふたりにひとりはがんになると言われている。よくある病気と言ってもいいのではないかと思っている。

 わたしの周りには難病や障害を抱えた人もたくさんいる。彼らもまた、それぞれの日常を生きている。
 難病というと物珍しいように見られることがあるが、病気によっては患者数が多い。約500人にひとりの割合の、遺伝する病もある。指定難病の中にも、患者数が10万人を超えるものも存在するのだ。難病はしばしば希少疾患(国内患者数5万人未満)と混同されることがあるように感じている。

 
 重い病気を抱えた人が雑に賛美され褒めそやされるコンテンツを、しんと冷えた目で見ている。
 夢を見ることに希望を見出したい向きには本当に申し訳ないのだが、大病を患ったら何にでも素晴らしいお答えを導きだせる聖人や賢者になるわけではない。
 普通の人が、普通に生きて、普通に病気になる。急に千里眼やソロモンの知恵を手に入れるわけではない。その人の歩んだ道からの風景が、その人をかたちづくる。健康な人と、何ひとつ変わりはしない。

 おかしな持ち上げ方をすること、ごくありふれた人としての在り方と引き離すことは、病気や病人の「非日常化」に他ならないのだと、わたしは思っている。それは明確な「区別」だ。健康な人と病人を、ラインで区切ってしまうもの。発達障害をお持ちの人がかならず天才であるかのような言説と同じで、勝手にファンタジーに追いやられる。

 普通の人が、普通に、病気になるのだ。

 それは職業人としての姿であろうと同じだ。自分の持ち分、専門性以外の部分においては、誰だって素人に過ぎない。
 だから世の中にはたくさんの専門分野があり、それぞれの専門家がいる。生活の中で折に触れて頼り、時にはたくさんの分野の専門家を招いて、生活は成り立っていく。

 千里眼や悟りを簡単に求めるのは、結局相手をコンテンツ視して利用しているのだと何故気付かないのだろう。重病人だから人生を悟り達観しているだろう、だから何でもわかるだろうという、患者属性とそのイメージを前提に成り立つコンテンツは、無茶ぶりと無理筋を重ねた残酷なミルフィーユに見える。
 
 相談事をきちんと引き受けられる人とは、より適切な人がいたらその人に繋げることができる人間だ。自分の経験を他者のそれと混同しない人間だ。
 まず自分のケアが必要な人に、手当たり次第何でも任せるのは如何なものか。それは重荷なのではないか。

 
 無理やり形作られた聖人像は、自分では簡単には壊せない。ご都合で奇蹟は起こせない。ひとりで解決できることならばいいが、他者の手が必要になった時、御輿の上からその下にいる人たち(実際は彼らが支えているのだが)に助けを求めることができるだろうか。降りて、教えを乞いに行くことはできるだろうか。一度こっきりではなく、根気よく何度でも。

 余計なお節介だとは思う。だがもしも御輿に担がれて、それが日々を苦しめるのなら、誰かに叩かれ粉々に壊されてしまう前にどうか「普通」である自分を取り戻してほしい。コンテンツ化され理想化された自分から、どうかさらりと逃げ切ってほしい。日常を生きていくために。
 
 

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」