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ことばと枷

 触れるのもどうかな、と思ったのだけれども、やっぱり書き留めておこうと思い直しゆるゆると文字を打っている。
 某タレント夫妻が関係性を変える、というニュースで一昨日はもちきりだった。他人様の人間関係、こと家庭内の話など横から口を挟むものではない。が、このニュースに関しては、色々な方向からちょっと考えてしまった。
 

 気になったのは、役割が負担になったという点。これ、発信者としての影響力が強ければ強いほど、自ら発した言葉の呪縛を受けるだろうな・・・・・・と思いを巡らせた。
 本人によって語られた、父親はこうあるべき、夫はこうあるべきといった理想論は、そのままパブリックイメージに直結する。理想論は必ずしも本心100パーセントである必要はない。タレントや文化人であれば、マネジメントやクライアントとのすりあわせくらいあるだろう。

 たとえば、アイドルやミュージシャンが「恋愛しません」「モテません」と公言したところで、それがファンのためのリップサービスであり戦略のひとつである可能性はかなり高いだろう。公と私の別が完全にない、というのは受け手側の希望かつ夢想で、実際にはひとりの人間なのだから様々な経験をしているのが普通だと思う。
 にもかかわらず、その現実が露呈するなり「裏切られた」という評価ダウンに直結しがちだ。設定を設定として捉えず、願望を重ねながら素直に丸ごと受け止めていれば、そうなる。

 今回も、そんな構図がチラッと見えるような気がする。
 つまり、「理想のふたりだったのに」と嘆く人も、「発信してきたことと違う」と憤る人も、固着したパブリックイメージを真に受けすぎなのではないか。人は日々揺らぎ、いつだって変わりゆくものだというのに。

 真に受ける人が多く、たくさんのフィードバックが集まれば集まるほど、強固に形成されたイメージは本人にとっては重圧となりうる。勿論これも実際にはどうなのかなど皆目わからないが、本来わからないことだからこそああだこうだと議論を戦わせることの無為に目が向いてしまう。
 

 ふと「モテたいですよね」と言っていた人の指にしっかりプロミスリング的な何かがおさまっているのを目にして、きみはどうか重圧から逃れて幸せに、などという余計なお世話を宙に浮かべた。当然ながら、それが本当はどんな意味合いのものかも、わかりはしないのだ。
 そして、わかっている必要すらないのだ。そういうふうにできている。

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」