リボン、巡る思考
そんなに考えなくてもと言われるたびに、自分が自分であることの意味を振り返ってきたような気がする。
いまだにピンクリボン啓発ポスターの件について考えている。自身がサバイバーであるだけではなく、過去に別件の啓発コンテンツや公的機関の広報モノに関わった経験が幾許か有るだけに、一層思考が深くなる。
昨夜。気がつけば歯を強く噛み締めすぎていたらしい。微かな頭痛。椅子に凭れる。
さて一晩寝かせた。静かに、つらつらと文字へと逃がそう。
声明が既に発表されたが、「ご意見」のうち、「お気持ち」が先で「ご批判」が後になることを残念に思った。
デザインもお知らせも、対象が男性だったならばどうだったろう。
エリクソンによる心理社会的発達理論にあるような、単純な快/不快で批判の声があがったわけではない。身体主体性やミソジニー、ルッキズム、マンスプレイニングに言及した意見を数多く目にした。多くは感情のみを並べるのではなく、その根拠となる思考を書いていた。
その中には自分のためではなく、同病を患う他者やこれから告知されるだろう他者を慮るからこその言葉もたくさんあったはずだ。初期だがそれなりの経験をしてきた。わたしも、そういう気持ちでいる。
花火のような「お気持ち」ばかりではない、その奥にある思考をまさぐり掴まないとわからない。コミュニケーションエラーは、きっとそこから始まっている。
つらいものや傷付くものからは離れて見なければよい、というのは正論でもあり、災害映像などが時に共感疲労を起こすようなこともあるのは確かだ。
だが、誰かが傷ついたり傷つけてしまうかもしれないイシューについては出来るだけ見て、考えていたい。自分の気持ちのうち幾らかを誰かの痛みのために向けたい。時には大きな声が必要になることもあるだろう、だがいたずらに強い言葉で切り裂くようなこともしたくはない。
それは、おかしいことだろうか。
ピンクリボンのみならず、センシティブな領域の啓発制作物には当事者性の理解が必要になる。いたく難しい。決して誇張ではなく「てにをは」ひとつでニュアンスが変わることもある。
患者会が関わってなお、どうしてあれらが良しとされたのか。声をあげた向きにはそんな考えがあっただろうと思う。
広い視野での解像度が足りなかったのだ、多分。悪意ではないからこそ、だからこそ逆に突き刺さってしまうこともある。
幾ら何かを懸命に思考したところで、メサイアコンプレックスのように自分が何かを救えるだなどとは考えてはいない。ただ、人と人の間にはどうしたって分かり合えない領域があるのだから、せめて土足で踏み込むことのないように礼節をととのえていたいといつだって願う。
もしも立場は違っても分かり合えることがあるならば、少しだけ誰かの重い荷物を預かることがかなうかもしれない。
多分、それはお互い様のかたちでもある。深慮が仄かに香るさり気ない思い遣りに、わたしもたくさん救われてきた。ヘリコプターペアレントのような大袈裟さではなく、そっと慮る手。わたしだけがやさしさの受け手であろうとは、思わない。
仮に、自分に僅かばかりでも出来ることがあったとして、それが評価されようがされまいが構わない。そんなものははなから求めてなどいない。だから小さくとも自分の場所で語る。
つらい人を見るのはつらいけれど、そのままにいるのはもっとつらい。だからエゴとも切り離せはしないだろうけれど、誰かの息がしやすくなるのならば詰られようともそれでいい。
時間の経過とともに、全てを否定するような尖ったクレームも増えてきた。その発信者が本当に当事者か非当事者かはわからない。炎上はいつだってエスカレートを繰り返し、膨張し、やがて本質から逸れていく。
昔、いつだっただろうか、小沢健二さんが言っていた。すべて想定内だと。考えられる反応を予想しつくして、表に出す。
まるで公的文書のようだなと思った。万人向けのものは、そうして削ぎ落としたり肉付けしたりを緻密に繰り返してつくられている。
──より良く、よりやさしくするために。
啓発は何のためだろう。大元からすべてを否定してしまっていいのか。十把一絡げにせず、細部に目を凝らしながら大局を見る。誰かが砕いた心の欠片を丹念に見る。そうすればきっと、言葉からはだんだん角がとれて丸くなる。
声をあげるなら、未来のために。あげられた声を受け取るならば、どうかその背後も汲み取ってほしい。そしてどうか、このどうしようもない面倒くささから、本来の啓発そのものが忌避されませんように。
最近また、これをよく聴く。
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」