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The さなぎ

さなぎを育てよう!
さあ、あなたもさなぎで快適生活を手に入れよう!

春子は駅前のスーパーで配っていたチラシを見ていた。

さなぎセット大特価と書かれたチラシには、
いろんな色のさなぎがあった。
だいたい、1メートル前後のさなぎだが中に入ると驚くほど広い空間が広がっているのだという。
春子がチラシをまじまじ見ていると、
「お客さん、さなぎの素質ありそうだわー」
とチラシを配っていた女性に話しかけられた。
その女性は40代半ばぐらいに見えた。小柄で、ふっくらしており、
ほほ骨が高く、しっかりと肉のついたほほに埋もれ、
目がどこにあるのかよく分からない顔をしていた。
大きく盛り上がった胸には「関」と書かれた名札が付いていた。

「さなぎの素質ですか?」
「そう!誰でも使いこなせるセットじゃないのよ。
中にはぜんぜん育たなくて返品したいって人もいたけど
開封して、使用した後の返品は基本受け付けてないの。
返品はお断りしたけど、どうやら人を選ぶみたいなのよ。
だから、今は店頭には出してないんだけど、素質がありそうな人にこのチラシを渡しているってわけ。」

なにげに春子は選ばれていたようだ。
「さなぎかあ」

仕事にうんざりしていた春子には
さなぎが少しばかり魅力的に見えた。

春子の勤めている会社は、大手の不動産会社だった。
お客様にぴったりの物件をお探しし、サポートするのが仕事だが、
実際の所は、不人気の物件ほど強くおすすめするように会社から言われていた。
特に学生はうるさいからと、人気物件はおすすめしてはいけなかった。

そんな不人気の物件を紹介できるほどの機転もきかず、
人の良い春子は全く成績がとれずにいた。
上司からの呼び出しもここのところ続いていた。
「成績が他の物と比べてこんなに悪いのはなぜかと聞かれ、
正直に「良質な物件を紹介できないからです」と答えると
「おまえは馬鹿なのか!」と耳元で叫ばれた。
身体の大きな上司は声もでかい。
そんな日が続いて、ついに春子の左の耳は聞こえにくくなっていた。

「ね、お客さんさなぎ育ててみない?
楽しいわよ!安くするように店長に話してあげるからさ!」
「なんで私なんですか?わたしさなぎを育てる素質なんてないかもしれないじゃないですか?
どうします?とんでもなく小さいさなぎしか育たなかったら。」
仕事の不満はちょっとした感情の亀裂として出てしまう。こんな自分に嫌気がさす。
しかも突然、さなぎの素質がありそうだなんて話しかけられ、余計頭が混乱する。

「あはは。大丈夫。大丈夫。私、勘だけは外れたことないのよ。
貴方には良質なさなぎの才能があるはずよ。ちょっとついてきて!」

そういって、関さんはぶりん、ぶりんとおしりを揺らしながら店内に入っていった。
スタッフオンリーの扉を開け、
「さあ、どうぞ」
と春子を中へ通してくれた。
中に入るのをためらっていると、関の顔が早くしろと言っていたので、
仕方なく中へ入った。
そこには長い廊下があったが、
すぐわきにスタッフの休憩室があり、そこに1人の男性がいた。
男性はどうやらお昼休憩のようだった。
卵とハムのサンドイッチを大きな口を開けほおばっていた。
「店長!さなぎの素質がありそうなお客さんを連れてきました。
うんっとまけてあげてください。」
むしゃむしゃと音が聞こえてきそうなほど、顔を動かし咀嚼している。
店長と呼ばれたその男性は30代前半といった風貌で、とても細く、
よれた真っ白なTシャツを着ていたが清潔感があった。

その店長と呼ばれた男はじっと春子を見ていた。上から下まで、また下から上までを
目を忙しく上下させじっくり見てきた。

そのあと、珈琲牛乳をくーと飲み、
「あー、美味しかった。ごちそうさま。」とやっとしゃべった。

「で、なに?」
「いっつも人の話をちゃんと聞かないんだから。
だから、さなぎの素質がありそうな人をつれてきましたよって!」

「うん。いいね。
さなぎ興味ありますか?」
と店長が聞いてきた。

「ありません。」と春子が言うと、

「実は、もう無料でお配りしているんですよ。
見たところ、貴方にはさなぎの素質が十分ありそうだし、育ててみてはどうでしょう?
さなぎを立派に育てると、何かと生きやすくなりますよ。
皆なかなか育てられないで、苦戦しているんだけどね。」

無料と聞かされ、春子はだいぶ心が引かれた。
もともとさなぎのことはTVで見たことがあった。
立派なさなぎを育てると、生活費がかからなくなるのだ。
さなぎの中の空間には全てが揃い、もう働かなくて良いからだ。

「ちょっとまってて。」
そういって店長は、どこかへ行ってしまった。

「よかったですね!あなた合格だったみたい。
前連れてきた人は、店長気に入らなかったみたいで、馬鹿高い値段で売ろうとしたんだから。
貴方は本物よ。さなぎの素質が十分あるわ。」

さっきからそのさなぎの素質が気になっていた。
「あの、さなぎの素質って?」
春子は思いきって聞いてみた。
「匂いみたいなもんよ。さなぎのにおいがするのよ。」
におい。。。。
春子は自分の匂いをかいでみた。
さなぎの匂いがすると言われ、喜ぶ女性はいない。

店長が小さな箱を持って、現れた。

「これ、さなぎセット。今日から育ててみてください。
貴方はきっと立派に育てられるから。」

春子は思わず受け取る。

「はあ。ありがとうございます」

「ひとつお願いがあるんですが、もし、育った日には、写真でも何でも良いんで
僕にみせてくれませんか?
僕はまだ、身近で育てた人に会ったことがなくて、
僕自身も育てようとしたことはあるのですが、
うまく育たなかったんですよ。
僕には育てる才能がなかったみたいです。」

「育てる才能?」

「はい。なんでも愛情がいるでしょ?
その愛情の加減が、さなぎは難しいんですよ。
大きすぎても、小さすぎてもだめなんですよ。愛情は。」

「私にそんな愛情があるかどうか分かりませんが、
とりあえず育ったら、ご報告しに来ます。
さなぎはあんまり興味ないですが、せっかくなので、育ててみます。」

店長はまるく目を見開き、
「え?貴方はさなぎに興味ありましたって顔してましたよ!全身から匂いがしてましたもん。さなぎの匂いが。ま、なんでもいいんで、育ったら、ちゃんと見せてくださいね。約束ですから。」

そう言って店長は自分の仕事に戻っていた。

「さなぎ育成、楽しんでくださいね!」
関さんの満面の笑みに肉厚ほっぺがぷるんとゆれた。

家に着いた春子は、さっそくさなぎを育てて見ることにした。
さなぎセットは10センチくらいの正方形の箱の中に入っていた。
箱を開けてみると、袋が三つと、白い容器が入っていた。
作り方の手順通りに作ってみる。
作り方は至って簡単だった。
白い容器に袋の中の粉を全部出し、水を50CC入れるだけだった。
混ぜろとか混ぜるな危険とかは一切書いていなかった。
袋を全部開け春子は匂いをかいでみた。
匂いはしない。
あっという間に準備が終わり、後はさなぎになるのを待つだけだ。

今日はつかの間の休日なのだ。
ここの所、新学期の時期は不動産屋は忙しい。
多忙を極めていた。
数字のとれない春子はひたすら雑用を任され、
書類作りに明け暮れていた。
正直、営業は得意ではない。
今の時期の書類作りの方が、春子の性に合うのだ。
忙しい時期には休みがなかなかとれない。週休2日の休みが1日減る。

シフト制だから休みもばらばらだった。
今日は実に6日ぶりの休みとなる。

はあー

春子は大きなため息をついた。
今日は一日何もしないと決めている。
もう外に出なくていいように食料もしっかり買ってきた。

春子は横になって窓から見える雲の流れを見ていた。

うとうとしてきた春子はそのまま寝てしまった。

どの位の時間がたっただろうか。
時計を見ると針は夕方の4時を指していた。
さんさんと照っていた太陽は和らぎ、影を落とし始めた。

春子は3時間近ぐっすりと寝ていた。

もう夕方か。

ダウンを着たまま寝ていたので、身体はぽかぽかしている。

おなかすいた。

買ってきたお弁当を食べることにしようと春子は立ち上がった。
ふとさなぎに目をやると
白い容器の中で、さなぎの形に変化している物があった。
「さなぎだ。え?成長早くない?」
さなぎは見るからにさなぎだった。
緑色で、たっぷりと水分を含んでいるようでみずみずしい。

「かわいい。」
小さなさなぎはまるで呼吸しているかのように、小刻みに揺れていた。

春子はさっきスーパーで買ったコロッケ弁当をほおばりながら、
さなぎを見ていた。
TVで前に見たさなぎは結構大きかった。
きっとまだまだ大きくなるに違いない。
色々片付けておかなくちゃ。

次の日の朝、さなぎはもう白い容器からはみ出すぐらいに成長していた。
「おはよう」
春子はさなぎに話しかけた。
さなぎは反応しているかのように、一瞬光った。

仕事に行かずに春子はずっとさなぎを見ていたかった。
が、そういう訳にもいかず、しぶしぶ仕事に向かった。

いつもと変わらない満員電車。
いつもと変わらない仕事。
理不尽に怒鳴りつけてくる上司。

自分の人生がこの上なくつまらなく思えてきた。

さなぎは昨日から成長してもさなぎのままだった。
私の人生はいつから止まってしまったのだろう。
成長していたはずの自分がどんどん欠けていったのはいつからだろうか。

人は成長していく生き物だと誰かが言っていたが、そんなのは嘘だ。
社会に出て成長なんてしない。
成長だと思っていたそれは自分をどんどん失っていくことだった。
そしてハッと気がつきそこで止まる。
高すぎる向上心が自分をこの上なく惨めな気持ちにする。
成長したい気持ちも向上心も手放した。

さなぎにはさなぎのままでいてほしい。

私は?欠けていった私は今どこにいるのだろうか。

春子は自分の底の見えない深淵から目をそらした。人生には生きていくために凝視できない問題もあるのだ。

「ただいま」
春子は家に帰るなり、お決まりのうがい手洗いを入念に行い、
さなぎをみた。
さなぎはあっという間に進化を遂げ、
春子のふくらはぎの高さまで成長していた。

春子はさなぎを抱きしめた。

「どくん。どくん」
とさなぎの音が春子の胸に響いてきた。

さなぎはちゃんと生きていて、しっかり成長している。

「さなぎには水以外、何にもいらないんだね。私もそうでありたかったな。」

春子はそっと呟いた。


次の日、春子は会社を休んだ。
さなぎをずっと見ていたくてたまらなくなったからだ。
その次の日も、その次の日も休み、
もう会社に連絡することなく無断で休んでいた。
春子は、家から出るのが怖くなってしまった。

毎日乗るぎゅーぎゅー詰めの満員電車の殺気だった雰囲気に今更ながら足がすくんだし、
理不尽に怒鳴られる事への恐怖が得体の知れない物体となって春子の心にわいてきたのだ。

もういい。行かなくて良い。やめてもいい。
私の代わりなんて、会社にはいくらでもいるのだから。
でも私の本当の気持ちを知っているのは私しかいないんだ。
何があっても私が絶対に私を助けるから安心して生きてほしい。
ここから逃げよう。自分を守るために。

「うん、うん」とさなぎは春子の話に頷くようにクネクネとした後、中央が割れた。中をのぞいてみると、広い空間が広がっていた。

春子はおそるおそる中へ入っていった。

さなぎの中はふかふかしていて、
10畳ぐらいありそうな広さだ。

広々ととても明るい。
春子はその場に座った。座ると、椅子とテーブルのような物が出てきた。
以前、見た光景と一緒だった。
さなぎの中はとても広い空間が広がっている。
住み心地が良いとTVの中の人も言っていた。
食べたいと思う物が出てきて、何不自由することなく暮らせるのだ。

ふと本棚があることに気がついた。
春子の好きな天体図鑑だった。
春子は星が好きで、よく天体観測をしていた。
占星術を学んでいたこともあった。

本棚には沢山の専門書があった。そのどれも春子が心惹かれる物ばかりだった。
シュタイナーやアリストテレスの本もある。
春子は夢中で本を読みあさった。

のどが渇いたなーと思えば、飲みものが出てくるし、
おなかが空いたなーと思えば食べたいものが出てくる。

Tvではさなぎを手に入れた人は、一生生活が保証されるのと同じだと言っていた。

春子はさなぎを手に入れ、一生の生活を手に入れた。

そのころ、さなぎはブームになっていたが、
育てられる人の数は少なく
さなぎを立派に育てられる人はとても貴重な存在だった。
そして不可解なことに、さなぎを育てていた人は、次々に消えていった。

「写真、写真。あの店長に見せに行かなくちゃ。」
一度さなぎの中からでた春子は携帯を取り
写真を撮った。

あのスーパーへ行った。
お店に行くと、丁度関さんがチラシ配りをしていた。
実に目は真剣だ。きっとさなぎの匂いがする人を探しているのだろう。

「こんにちは。」
春子は関さんに話しかけた。

「あら!こんにちは。どうさなぎは?」

「順調に育ちましたよ。ほら」
そういって春子はとったばかりの写真を見せた

「ほんとだ!さなぎだ。はじめてみたわ。ほんとうに育つのね。」
関さんは肉で押し詰められたつぶらな瞳を悲鳴が聞こえてきそうなぐらい見開いていた。

「店長に見せたらビックリするわよ!行こう」
そういってまたスタッフルームへと通された。
丁度店長はPCに向かい作業中だった。

「店長。例の彼女きましたよ」
「今、忙しいんだけど、後にして。」
そういって店長は顔さえ上げようとしなかった。
「さなぎもう育ったらしいです。」
そう関さんが言うと
「え?もう育ったの?見せて」
忙しいだの言っていたのに、さなぎというと食いついてきた。
春子はさなぎを見せた。紛れもなくさなぎで
それは神々しささえ感じさせた。
ゴクリとつばを飲み込む音があたりに響いた。
「立派なさなぎですよね!店長。」
「あー本当、立派だ。君、さなぎの講師にならないかい?」
「さなぎの講師ですか?」

「そう。ただ、皆にさなぎの育て方を教えるだけでお金がもらえる。
実は今度の日曜日にスーパーでイベントを開催するんだけど
そのときにさなぎの育て方講座をして、さなぎを育てる人を増やしていけば
このさなぎセットも売れるし。このままだと全部破棄しないといけなくなるんだよ。
僕としては育つ可能性のある物を軽々しく処分するなんていやなんだ。
どうだい?報酬は1講座1万円。午前の部と午後の部で2回するから日曜は2万円だね」

「2万円ももらえるのですか?」

「まっ、今さなぎは密かにブームだからね。人は大勢集まるだろうし。
そのぐらい出せる。」

仕事も無断欠勤続きで、結局もう行く気にもなれない。
春子はなかなかいい仕事の話かもしれないと思った。

「でも特に秘訣みたいなことないんですけど。」

「まずどういう風に育てたか
どんな気持ちで育てたか
だいたいの部屋の気温や水をあげた時期とか色々あるでしょ。
それを話して。難しいことはない。体験談を話してくれればいいだけだよ。」

「体験談ですね。分かりました。」

一度はOKしたものの、急に胃がシクシクと泣き出した。
あまりにも胃が痛むので春子はさなぎの中に入って
少しの間寝ることにした。
夢の中で春子はさなぎから蝶になって
自由に空を飛び回っていた。
頬にあたる風が優しかった。
目が覚めると春子は泣いていた。
何で泣いているのか分からなかった。
出所の分からない涙はつぎつぎ流れ
今までせき止めていた防波堤が崩れ
あふれた感情はどうもとまらない

「おー」と言っては泣き崩れ
「うおー」といってはしゃくり上げて泣いた

顔は涙と鼻水でどろどろになった。

しかし突然涙はピタッと止まった。
さっきまであんなに叫んでいたのに
何の予告もなしに突然打ち切りになったドラマのように

叫びすぎてのどが痛かった
おなかも空いた

「野菜食べたい。野菜いっぱい食べたい」

そう言うとテーブルの上には春子の顔より大きい
ボールいっぱいの野菜が出てきた。
それをむしゃむしゃ、わしゃわしゃと春子は夢中で食べた。

あんなに泣いていたのが嘘のようだ。

さなぎと共に暮らすようになってからは
ほとんどをさなぎの中で過ごすようになっていた。
今日が何日で何曜日かも分からない。
ただ日曜の講習会は日曜日だからそれだけは忘れないように
毎日日付の確認をしていた。

春子は5日ぶりに大地を歩いた。
歩くってこんな感触だったのかと一歩一歩を確認しながら
前へと足を出していった。
ほとんど座って過ごしていたので
たった5日でも足の筋力は少し衰えていた。

会場はスーパーの横にあるプレハブのような建物だった。
普段は色んな講演会やら講座やらに使われ、貸し出していた。
会場に入るとまだまばらにしか人は集まっていなかった。

春子は一番前の端に座っていた女性が目に入った。
存在感が薄く、薄すぎて逆に目立っていた。
彼女からは生きている者の体温や匂いを感じなかった。

講座が始まる頃にはまばらだった人も会場内が埋まるどに集まっていた。
ざっと20名はいただろう。
初めての講演は難なく終わった。

2部が始まると、また前の席の同じ席にその彼女が座っていた。

「あれ、さきほども参加さていましたよね?」

と春子はその女性に話しかけた。

「はい。私さなぎの話が好きなんです。
ずっと育ててみたいなと思っていたのですが、
もし育てられなかったらさなぎがかわいそうだから
ちゃんと話を聞いてからにしようと思いまして。」

そう言ってほほえんだ。
手に持ったノートにはびっしりと春子が話した言葉が書かれていた。

2部が終わったあと、先ほどの女性が話しかけてきた。

「お話、とてもおもしろかったです。
私もさなぎを育てて、そしたらもうずっとさなぎの中で生活したいなって思っています。
人と関わる事に少し疲れてしまって。今日から早速育ててみますね。ありがとうございました」

そういってその女性は帰っていった。

いつの間にそこにいたのか、どこで見ていたのか関さんがすかさずやってきた。
「あの子、友井さんて言って、高校生の時に内でバイトしていたのよ。
変わった子でまったく笑わないからよくお客さんからクレームが入ってたわ。
笑わないとね。だめよね。接客業なんだから」

そう言うと関さんはおしりをぷりぷりと揺らしながら、
片付けの準備に取りかかった。

「友井さんかあ」
春子は小さな声で名前をつぶやいた。

春子の講座は初回にしては上出来だった。
その証拠にさなぎセットは飛ぶように売れた。

「あ、これ今日の講座分のお給料。」
「ありがとうございます」

「また、お願いできるかな?
とっても反響が良くてね。あともう少しで在庫が売り切れるんだ。
あと30セット。これさえ売れればいいからさ。おねがい。」
そう言って店長は春子に頼んだ。

一瞬胃がきゅっと縮んだが
「分かりました。あと一度だけやってみます。」
と答えた。

「ありがとう!!」
そういって店長はくしゃっと笑った。
こういう顔で笑うんだ。
春子はおさない頃、犬を飼っていた。
まさに店長の笑顔は犬が飼い主に向ける信頼と喜びの笑顔だった。

その次のさなぎ講演も好評だった。
これっきりで終わるはずの講座だったが、結局2週間に1度行うことになった。

そのうち、「是非、うちでも話してほしい」と色々声がかかるようになった。
「今度公民館でさなぎの講座をやっていただけないでしょうか?
なかなか来れない遠方のお母さん達もいて。
でもみんな何とかさなぎを作りたいって思っているようなんですよ。
生活が少しでも楽になればって。」

春子は店長の顔をみた。
店長は知らん顔をしている。行きたいなら行けばといった感じだ。

「いいですよ」

それから毎週火曜日には隣町の公民館に行って講座をすることになった。
春子はもともと接客をしていただけあって
とても丁寧に質問にも答えた。

「さなぎが50センチまでは大きくなったのですが
それから先、大きくならないのです。どうしたらいいのでしょうか?」

「言葉が足りないのだと思います。
さなぎは心の言葉を読みます。今日からさなぎのことを「この子」と呼んであげてください。
この子、大きくなーれと。思う言葉を変えてみましょう」

その次の週、春子は嬉しい報告を受けた。

「先生、さなぎちゃんと成長しました!ありがとうございます。」

春子がアドバイスすると確実にしっかりとさなぎは成長した。
さなぎを購入する人はますます増え、
スーパーは大反響。春子の収入もどんどん増えていった。
収入が増えても春子の生活は変わらなかった。
仕事が終われば真っ先に帰ってさなぎの中に入った。

たちまち春子の噂は広がり、火曜日の公民館には人だかりが出来た。
初めはさなぎの質問ばかりだったのに、いつの間にか
身の上話を聞くようになり、それにも嫌な顔一つせず、春子は真摯に話を聞いた。

ただ聞くだけだったが、話を聞いてもらった人は次の日には悩みの原因が解決していった。
お金に困っている人には臨時収入が入ったり
余命宣告を受けていた旦那の病気が治ったと喜ぶ人までいた。
さなぎの講習会は春子の言葉を聞きたい人、春子に話を聞いてもらいたい人でいっぱいだった。
皆、春子を拝み、春子を崇拝していた。
いつしか「さなぎさま」と呼ばれるようになり
皆勝手に話し、拝み、お金を置いていくようになっていた。

店長はスーパーを辞めて「株式会社 Theさなぎ」を立ち上げた。
関さんは春子のマネージャーになった。
春子は雇われている形だったので、お金は全て店長に渡していた。
店長はどんどん身なりがきれいになっていった。
スーパーのよれよれTシャツにジーパンの身なりは
アイロンのかかった白いシャツに穴の開いてない青いジーパンへと変貌していき
最近はパリッと音がしそうなスーツを着るようになっていた。
店長のシャツからはいつも柔軟剤の甘い香りがした。

関さんは絶えず胸の開いた服を着るようになり
もともと大きかった胸は太ったせいかさらに大きくなりこぼれ落ちそうだった。
鼻につく香水を振りまき、若い男の子と遊ぶようになっていた。

「はるちゃん、私、この後約束があるから帰りは一人でいいかしら?」

「はい。かまいませんけど」
いつものことだ。
「今日ね大学生の子とデートなのオ。うふふ。とってもかわいいのよ。若いっていいわ。
お肌もつやつやで。はるちゃんも恋しなくちゃね。まだ若いんだから。」

そう言いながら、関さんはまっかな口紅をべったりとつけていた。
春子は吐き気がしていた。
鼻につく香水も、べっとりまとわりつく真っ赤な口紅にも。

ムカムカする胃を押さえながら、会場に入った。
今日はスーパーで講座の日だった。

会場には30名ほどが集まった。
見渡すと皆ぎらぎらとした顔つきをしていた。

最後の質問コーナーのところで
手を上げたのは腰まである長い髪を綺麗にカールさせた巻き髪の背の高い女性だった。
Vブランドのバックを持ち、毛皮のストールには深いしわの刻まれた顔が埋もれていた。

「あの、さなぎの中で何でも出せるのならお金も出せるのですか?」
と女は聞いてきた。
「さなぎの中ではお金は出したことはありません。
でも食べたいものは出せますし、飲みたいものも出てきます。
読みたい本も出てきます。これあれば十分生活出来るので
特にお金を出したいと思った事はないので試したことはないです。」

そういうと質問者は一瞬むっとした顔をし、すぐに笑顔に変え
「分かりました。ありがとうございます」
といって座った。

その後の女の視線は春子を逃がさず
一心に注がれたまなざしは春子の白くて柔らかな皮膚に突き刺さるようだった。

やっと講演も終わり、春子は足が少し震えていた。
「あの。。。」
話しかけられ一瞬びくっとなり今度は背中が震えた。

「あの...この間、講演会に参加したものです。」

「あー、あのときの」
前の席に座っていた、友井さんだった。
春子は深く深呼吸をして息を整えた。

「大丈夫ですか?顔色が悪いようですが」

「大丈夫ですよ。どうかされましたか?」

「実はさなぎが順調に成長して、今は1日の大半をさなぎの中で過ごしているんです。
春子さんに今日はそのお礼が言いたくて。ありがとうございました!」

「いえいえ。良かったです。嬉しい報告ありがとうございます。」

「やっと自分の居場所が出来た感じです。今、とても幸せなんです。」

友井さんからは、さなぎの匂いがした。
今なら分かる。さなぎのにおいが。
まじりっけのない、素朴なにおい。

講座の後は本屋に立ち寄るのが春子の日課となっていた。
さなぎの中でも本は手に入るのだけれど
本屋の匂いが好きなのだ。
ここに来るといつだってワクワクしてしまう。
本屋に行くといつも店内には右足から入る。
入り口の前でいつも立ち止まり、
なるべく両足で入りたいと思うのだが、
思うだけで右足で入っていた。

今日は足をそろえて、小さくジャンプして中へ入った。
だれも春子の姿を気にする事なく、
両足で店内に入った春子に好奇の目を向ける人もいなかった。
思ったほど誰も他人を気にしてなんかいない。
みんな自分のことで精一杯だ。

すたすた春子が店内をまっすぐ歩いていると
恐竜図鑑を読んでいた少年がちらっと春子の顔を見て
すぐに目をそらした。

そうか。今は冬休みか。

そんなことを考えながら
雑誌を3冊と人気の小説3冊と植物の写真集3冊、新刊の本を2冊買って帰った。

計11冊は腕がちぎれそうなほど重かった。

途中バス停で立ち止まり荷物を下ろして座って
流れる雲をみていた。

目の前にバスが止まりはっと気がついた。時計をみると30分が経っていた。
最近時間の感覚がおかしい。
そしてこのバス停には春子しかいない。
運転手と目が合うと、少しにらまれた。
春子に乗るつもりが無いことを確認すると
不機嫌な煙をまき散らしながら走り去って行った。

よいしょ。

と春子は立ち上がり11冊の本を抱えて歩きだした。

家に帰ると、相変わらず手洗いうがいは欠かさずした。
手を洗う時間は以前に比べ増えた。
洗っても洗ってもとれないシミがあるような気がして
何度も何度も手を洗った。石けんをつけて洗っても、きれいにならない。きれいにならないのはなんで?きりが無い。
「もう、おしまい!」そう言ってもやもやしたしこりを抱えながらも
手を洗うのを止めないと止まらなかった。
まるで蛇口の壊れた水道のように。

丁度来週の火曜日の公民館での講座はお休みだ。木曜日にはまたスーパーで講座をする
今度は店長も顔を出すので、少し春子の胃もキュッとなる。
最近店長や関さんに会うと鳥肌が止まらなくなる。

とりあえず木曜までだらだらと本を読んで過ごすことにした。

木曜日の朝、胃の痛みに耐えながら
春子は家を出た。
大丈夫いつものこと。いつもしばらくしたら治るから。

そう言い聞かせ、スーパーまでゆっくり歩いた。
あまりに痛みがひどいので、途中自販機で水を買って
持ってきていた胃薬を飲んだ。
ふと自販機の横にある看板が目に入った。
「ねこに餌をあげないでください!猫が増えすぎて困っています!」
春子は文字をぼんやり眺めていた。
丁寧な日本語で書かれたその文字は、暴力的で春子は背中からぞくぞくした。
なんだろう。熱でも出そうな悪感を感じた。

春子は再びゆっくり歩きながら
人間の命と猫の命の違いってなんだろう
とぼんやり考えていた。
その命の違いは春子には分からなかった。

会場に着くと先日質問してきた巻き髪カールの女性が顔を真っ赤にしながら立っていた。

「ちょっと!貴方ができると言ったのにぜんぜん育たなかったじゃないの。
このさなぎ、すぐに枯れてしまって、これって詐欺じゃないの?
これで1万円て高過ぎると思わないの?」
あたりに歯の鋭い言葉をまき散らし、
言葉の破片はますます春子の胃を締め付けた。
痛みは激しさを増していく。

店長も関さんもとにかく謝っていた。

「育つ育たない事がある事は初めにお話ししたとおり、個人差がありますから」

「なに?私にはその素質がないって言いたいわけ?
馬鹿にしないでくれる?
この人に習えばどんな人でも育てることができると聞いたからわざわざ来たのに。
その女に謝らせてちょうだい。
そもそも態度がでかいのよ。何様よ。非常に不愉快だわ。ほら、謝って。」
女は枯れたさなぎを春子に投げつけた。

足下に転がった枯れたさなぎを春子は眺めていた。
胃はシクシクするのに言葉は勝手にこぼれ落ちた。
「そっちこそ。」

春子がそういうと店長も関さんもギョッとした顔になった。
すかさず店長が
「お客様、申し訳ありません。
今回は返品も受け付けますから。それでよろしいでしょうか?」
そういって普遍的な作り笑顔をした。
たいていの女性は店長が笑えば笑わずにはいられない。

しかし女は春子にしか目がなかった。

「そっちこそなによ。いってごらんなさいよ。」

「さなぎの事をちゃんとまっすぐ見ようとしない人にさなぎは育てられません。
枯れてしまったさなぎがかわいそう」
春子は言い放った。

女の額には怒りの血管浮かび上がり、
目は真っ赤になっている。

「何ですって!?」そう叫んだ後
女は次々と口から白い糸を吐き出し始めた。

「ひぇ!!」
店長と関さんは奇妙な声を出し、走って逃げた。

女は自分の吐き出す白い糸に足の先からどんどん
巻かれていった。
その間も女の怒りは収まらず、自分が巻かれている事にすら気がつかずに叫び続けた。

春子は巻かれている女の手をじっと見ていた。
はがれ欠けたパッションピンクのマニキュアが羽をちぎられた蝶のように見えた。

見る見るうちに女は真っ白な繭になっていった。

最後に
「あれ?」という声が聞こえ、女は静かになった。

繭の匂いは町に広がり
7人の糸紡ぎの者達が繭の匂いを嗅ぎつけて四方から集まってきた。
全員同じ真っ白な絹のマントを頭から羽織り、顔が見えなかった。

「まあ、立派な繭ですこと!」
「これでしばらくの間は糸を紡ぐことが出来るわ。」
「では、先を急ぎますので。ごきげんよう。」
そう言って糸紡ぎの者達は春子に軽く会釈をした後、
大きな繭を7人で肩に担ぎ北の方角に歩いて行った。

春子は足下に転がっている枯れたさなぎを手に取った。
「一緒に帰ろう」
さなぎを大事に抱え、店を出て行った。

何とか春子を奮い立たせていた電池は底をついた。
切れた糸はもうつながらない。

春子はとうとうさなぎの中から出てこなくなってしまった。
枯れたさなぎに水をやると、さなぎは色を取り戻した。
「よかった」
さなぎに話しかけるとさなぎはくすくすっとゆれた。

一日の大半を春子はさなぎの中で眠っている。
眠くて眠くて仕方が無い。
眠っている間、春子は蝶になった夢をよく見ていた。
蝶になりどこまでも自由に飛び回っていた。
身体は驚くほど軽く辺りの景色は光に満ちていた。

不思議とおなかも空かない。
夢から覚めて目覚めてもおなかが空かないので
水だけ飲んだ。
そのうち夢から覚めても身体は蝶のままだった。
紫と青のきれいなグラデーションの羽は春子の好きな色だ。
羽を動かしてみた。
少し宙に浮いた。
今度は大きく動かしてみた
するとさなぎの天井を突き抜けて
マンションの天井をつきぬけてぐんぐん上へと上がっていった
大気圏を抜けいつも夢で見る光に満ちた場所へとたどり着いた。

「春子さん、ついに蝶に成長したんですね。」
声のした方を見ると、
あの講座で端の席に座っていた友井さんだった。
「私も気がついたら蝶になっていたんです。」
そういって友井さんは羽を動かした。
あたりにはキラキラと光る金の粉が舞っていた。

「ここにはいつの間にか来ていて、そして帰れなくなりました。
でもここはとてもいいところですよ。
毎日何もないけれど、とっても身体が軽いの。心も軽い。」

立派な蝶なのに空気はその人のまま、友井さんそのものだった。

「蝶になったんですね。」

「蝶になったの。」

ふと後ろを振り返るとひび割れたガラスケースに入った地球が見えた。
今にも崩れてしまいそうなガラスケースに衝撃を与えないように
春子は「バイバイ」と小さな声で別れを告げた。

「いきましょう。」
春子は友井さんの後に続いて飛び立った。

最後に春子が振り返ったとき、地球はもうそこにはなかった。

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