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カプセルホテル

オリオン座の3つ星が1つ消えてしまった
あの日、滝鳴街は地下に移された。

kの住む町では大きな雨音が辺りに響き、
道にはいくつもの水たまりが出来ていた。
あのとき夜の中で目が合ってしまった。

いつも何かに見られているような
夜の気配はどんどん濃くなっていく。
ひっそりと身を潜め
沈んでいた物が次々と浮かび上がってくる。

背後に引きずるような影を抱えて歩く人。
笑っていたが影はずっしりと重たそうだった。

kは夜に出歩くことが好きではなかった。

大きな目玉は闇に浮かび
気を抜くと目が合ってしまうから
目を合わせないようにしていた。

kは匂いに敏感だった。

たいてい目玉の大きな場所は匂いが強い。
周辺にはまとわりついてくるようなヘドロのような匂いがしていた。

繁華街を1本中に入ると空き地がある。

その日は飲み会でkは沢山のお酒をのんだ。
お酒を飲むと嗅覚が少し鈍って夜の道もすいすい歩ける。
目玉のこともすっかり忘れ歩いていると
誰かに呼び止められたような気がして立ち止まった。

振り向くと誰もいない。

またkは歩き出した。
気がつくとkは同じ所を何度もグルグルと歩いていた。
そしてまた誰かに呼び止められたような気がした。

振り返った時、目の隅っこに何かが写った。

kはゆっくりと右側の建物をみた。
ビルとビルの間に細い道が出来ていた。

kは目が離せなくなっていた。

暗がりにぼんやりと浮かぶ目玉がこちらを見ていた。
宙に浮かぶ
ぎょろぎょろとした大きな2つの目。

背中を刃物でなぞられたかのように
kは固まって動けなくなった。
今までの時を失ってしまったかのように
足の動かし方を忘れてしまった。

目が覚めたとき天上には沢山の四角形の連なりが見えた
真っ白な壁。腕を見ると点滴をされていた。
kは病院にいた。

「kさん、起きましたか。
長いこと眠っていましたね。」
kはまだ目覚めたばかりの
ぼんやりとした頭で記憶をたどってみるが
これまでのことを思い出せないでいた。
「急性アルコール中毒で倒れて運ばれてきたんですよ。
お酒強くないでしょ?それなのに昨日は飲み過ぎたみたいで。
トイレで倒れているのを職場の人が発見してココに運ばれてきたんですよ。」

そうだ。昨日は新年会だった。
いつもなら決して行かない飲み会だが
お世話になった室さんの送別会も兼ねた新年会だったので参加したのだった。

繁華街には覗いてはいけない一角がある

室さんに一度
「kさあ、目玉見えるだろ?」
と聞かれkはハッとした。
「なんで分かるんですか?」
「俺、そういうの匂いで分かるんだ。
俺も目玉が見えるから。
この街はなかなかおもしろい所だよ。
でも街の人たちが踊りを踊る事をやめるのなら
この街からは出ていくつもりだ。
とてもここにはいられなくなるからね。」

そういってkの右肩をポンポンと叩いた。

それ以来、室さんとは目玉について話したことは無かった。
ただkは室さんは目玉と目を会わせたことがあるのかが気になっていた。

室さんはkの上司だ。

仕事終わりに室さんから飲みに誘われたのは
正月の長い休みも終わり
仕事始めの雪の降る寒い夜だった。

室さんと一緒におでん屋にいった。
室さんは熱燗。
kはビールを頼んだ。

「お酒を飲むと鋭い嗅覚が和らぐよな。」
そう室さんは言いながらはんぺんを食べていた。

「俺さ、3月で退社することになったから。」
「えっ!?辞めるんですか?」
「そう。今年から盆踊りやらなくなるんだってこの街。」
「それと仕事を辞めるのと何か関係があるのですか?」

室さんはくいっとおちょこに入ったお酒を飲んだ。
ごくんとのどが鳴る。
「前にkにも話したと思うんだけど、
この街はおもしろい所なんだ。でも踊りがなくなるとちょっとやばいんだ。
だからもうこの街にはいられない。
実家がある北海道に帰ることにしたんだ。
もともと家は農家をやっているから
親父ももう歳だし引き継ぐことにしたんだ。」

「やばいって、何がどうやばいのですか?」

「目玉がどんどん成長している。
今はまだ目玉と認識できていても
その内認識できないくらい広がって街をぱくりと飲み込んでしまうだろうね。」

目玉の話しを聞いて
目玉がドンドン成長しているのはなんとなく肌で感じていた。

kはいつも目を合わせないようにしていたが
何時もいつまでもしつこくねばっこい視線を感じていた。

今でもドアの外に視線を感じる。目の隅にちらちらと映り込んでくる。

「ほら、最近目玉のしつこさが増したと思わない?」
「思います。絶対に目を合わせないようにしているのですが。」

「あと、余計なお世話かもしれないけれど
お酒は日本酒、食べるなら米をしっかり食べろ。」

それからはkは米を好んで食べるようになった。
お酒を飲むときには日本酒を飲んでいる。

室さんと飲んだ翌週の金曜日に会社の新年会があった。
その飲み会に室さんの姿はなかった。
室さんはインフルエンザにかかって1週間休むことになっているときいた。

目玉と目が合ったのは夢の中だ。
現実のことでは無い。
そう思おうとしたが
違う。実際に見たんだ!

kはじっとり脇に汗をかいていた。
あの夜、居酒屋のトイレに入ったとき窓が開いていた。
外はまっ暗だったが、あの気配を感じていた。
kは窓の方を見ないで用を足し、
手を洗おうとした。
洗面台の左側にも窓があった。
窓は少しだけ開いていた。
kはうつむき加減に窓を見ないようにしていたが
1度だけちらっと窓の方をみた。
それは一瞬の出来事だった。
目が合ったんだ。下を向いたkの目線の先に下からのぞき込むように
目玉がこちらをみていた。
それからの記憶は無いが
確かに目を合わせていた。
そのあと倒れて、夢の中でもそれを見たのだった。

一度目はトイレの窓の隅っこで。
二度目は夢の中のビルとビルの隙間で。

あの日は日本酒を飲んだ。それでも酔わなかったから
ビールを2杯とハイボールを2杯飲んだ。
もともとアルコールにあまり強くない体質なのだが
あの日はなかなか酔うことが出来ずにいたのだ。
kははっきりと記憶をとりもどしていた。

かすかに右の肩に違和感を感じながら
病院のベットの上で日がな一日を過ごした。
次の日kは退院した。

その日から奇妙な感覚は続いた。

病院の帰り道、三毛猫にあった。
三毛猫はkを見ると
しっぽを膨らませ、威嚇した。
散歩している犬は歯をむき出しにしてkに吠えてきた。

スーパーに立ち寄ってお弁当を買おうとレジに並ぶと
一人の老婆がkに近寄ってきて

「未来をかついでどこに行くの?」と言ってきた。
「未来?」
「あんたの肩に未来が乗っているよ。ぷかぷか浮いて。
あっちいったり、こっちにいったりしているよ。
しっかり離さないようにしないと。」

kの周りに何かが漂っているような違和感は続いた。

kが歯を磨こうと洗面台の前に立った時に
kは鏡をみた。
白くて丸い球体がkの周りをさまよっていた。
のびたり縮んだりしている。
プカプカ浮いてkがふーと息を吹きかけると洗面所から出て行って
またぷかぷかと戻ってきた。
たいていはいつも右肩にいた。

kは職場に行くとめまいが起こるようになり
初めは軽いめまいだったが、だんだんと耳鳴りもひどくなり
急に意識が遠のき倒れるようになってしまった。
仕事を続けていくのが困難になりkは仕事を辞めた。
室さんの言葉が心の奥でずっとひっかかっていた。

kはこの街を出ようと決意した。

引っ越し先も決まっていない内から
kは荷物をまとめだした。
もともと荷物は少ない方だった。
服は決まった組み合わせの物が3着。
季節ごとに着倒して古さを感じると捨てるので服は少なかった。


青いスーツケースに今、必要なものだけをつめた。
あとは手放し
今まで使っていた布団も処分した。
家電は小さな冷蔵庫と洗濯機があったが、
リサイクルショップに引き取ってもらった。

部屋はkとスーツケースだけになった。

部屋を出るときには1ヶ月前に言わないといけなかった。
まだ部屋にいることも出来たのだが、
少しでも早くこの街を出たい一心で早々と街を離れた。

とりあえずしばらくの間は貯金を崩しながら生活していくことにした。
特に何の趣味も物欲もなく、飲みに出歩くこともあまりなかったkには
365万の貯金があった。


今はずっとカプセルホテルに泊まっている。
カプセルホテルの一室を1ヶ月借りる事ができ、それと同時に仕事も出来た。
シャワー、部屋代は無料。
その代わりホテルで清掃係として働くことになった。

このカプセルホテルは1ヶ月単位で借りると安く借りることが出来る。
宿泊よりもカプセルホテルを好んで借りている人が多かった。
カプセルホテルの一室を好きな本で埋め尽くし自分専用の図書室として利用する人や
マントマニアは世界中のマントを買い集めカプセルホテルに置いていた。

マントマニアとは何度かエレベーターで一緒になった事がある。
全身を何時もマントで多い隠し、ごにょごにょとずっと何かを唱えていた。
はじめてマントマニアに会ったときkは自分に話しかけているのかと思い
「えっ?」と聞き返したことがある。
一瞬マントマニアの背中がビクッとなり静かになった。
そしてまたしばらくするとごにょごにょと唱えだした。
マントマニアの顔は未だに見たことはない。

ここの住人は住むと言うよりは
住処とは別に特別な部屋として利用しているようだった。

仕事は朝6時から始まる。
kは毎朝4時に起きる。
起きるとヨガをして身体をのばす。
ヨガの間丸い球体は左の肩に乗ったままだった。
ヨガが終わると、珈琲を煎れる。
これは22歳の時から続いている変わらない日課だ。
ゆっくり珈琲を飲みながら
窓から外を眺める。
ちらほらとスーツを着た人たちが駅に向かう姿が見え出す。
かつて自分もそうだったのだと思うがまるで遠い昔のようだ。

仕事はトイレの掃除から始まりシャワールームの掃除、そして部屋の掃除だ。
たいてい仕事は10時には終わる。それからは自由な時間だ。

毎日特に予定も無く、しばらくは次の仕事を探す気にもならなかった。
kはこの気ままな暮らしが気に入った。
住むところもあり、毎月3万円のお給料がもらえる。
光熱費もかからないので3万円もあれば十分だった。
kは1日1食しか食べない。
その方が体調が良いことに気がついたのは30歳の時だった。
それ以来、1日1食。一人の時にはお酒も飲まない。
たいていはスーパーに行ってフルーツを買う。
ミカンやりんごだ。
あとは水。
それで終わり。
ホテルのオーナーがパンをくれることがある。
オーナーの趣味がパン作りだからだ。
それも米粉のパン。
「ここの人たちには米が合うんだよ。だから絶対に米粉。
私が挽いた米粉はもちもちするから好評でね。」

オーナーとkが休憩室にいるとき
奥のキッチンからパンの焼ける温かく甘い匂いがしていきた。
「そろそろできたかな。」
そういってキッチンから白いお皿に
湯気の出ている丸いパンを2個持ってきた。
「焼きたてだから、気をつけて。」
オーナーからパンをもらうとkはすぐにその場で食べた。
できたてのパンは温かくふかふかしていて美味しかった。
「おいしいですね」
とkが一言言うとオーナーはとても嬉しそうだった。
「パンを美味しくする秘訣はね、発酵の邪魔をしないことなんだ。
時間をかけてゆっくりゆっくり発酵していくのをただ忘れていること。」

「それだとパンを作ることも忘れませんか?」

「だから日課にしているんだよ。
毎日夕方からパン作りが始まり
夜のうちに発酵させて朝焼くんだ。
とにかくほったらかしにして置くことが大事なんだ。
その方が酵母は発酵に集中出来るからね。
私が色々思いすぎると、その思いは酵母の発酵を邪魔することになるんだ。
何も思わない事が大切。
何かを作るときには何の思いも持たない方がちゃんと形になるんだよ。」

カプセルホテルの受付には米粉パンが置かれている。
朝食が出ない代わりに食べたい人は自由に持って行くことが出来る。
オーナーの作る米粉パンは人気でいつもあ
っという間になくなってしまう。

カプセルホテルの前には公園がある。
ホテルで使わなくなった古いカプセルは
公園に置いている。
その古いカプセルは公園で暮らす人たちが使っている。

公園のカプセルで暮らすおじさん達もパンが焼き上がる頃になるとホテルに入ってパンをもらっていく。
オーナーは何も言わない。
食べたい人が食べてくれたら良いと言っていた。

kは前に公園で暮らす人たちとオーナーが楽しそうに話しているのを見かけた事がある。
みんなおにぎりと温かい味噌汁を食べていた。
定期的にオーナーは一人で炊き出しをしているようだった。
kと目が合うと、kを呼んだ。

「食べて行きなさい」
そういってkにもおにぎりと味噌汁をくれた。
外で食べるご飯は特別に美味しかった。
それからkも時々炊き出しを手伝うようになった。
炊き出しは月水金の週に3回だ。

カプセルホテルの従業員はkだけだったが
ホテルの中も周辺もいつもピカピカだった。
この街は全体的にピカピカしていた。
特にホテルの周辺には色とりどりの花が咲いていた。
kが通りかかると花たちは一斉に歌い出しゆれていた。
白い球体は歌声に合わせて
いつも以上に空高く飛んだり跳ねたりしていた。
公園に植えられている花はもとから在る花だったが、
公園に住む人たちは
出来た種を大切に保管して毎月、新月の夜にホテルの周辺に植えた。

今までは目玉と目が合わないように
嗅覚を鈍らせるためにお酒を飲んでいたが
目が合ってしまった今はもうどうでも良かった。

沢山の人がこのホテルには泊まっているようだったが
kはマントの人、ラッパの女、隣の部屋のメモ魔、ランタン職人、
マラカスの男くらいしかまだ把握出来ていなかった。

ラッパの女は決まって朝の10時、夜の10時に長いことラッパを吹いている。
ランタン職人は以前ぼや騒ぎを起こしたことがある。
それ以来、オーナーは部屋で火を使うことを固く禁止しているそうだが、
LED証明を使ったランタンの明かりはどうも味気ない。
そこでランタン職人は自分の魂を燃やすことにした。
ぼうっと明るく暖かな火が灯っているのだが、
みるみるランタン職人は痩せていき、
最近は薄くなりすぎて外に出ると風に飛ばされるというので
ずっとホテルに引きこもっている。
kはまだランタン職人の手しか見たことが無かった。

朝は必ずランタン職人の部屋にkが食事を届けに行く。
部屋の外に出られなくなってしまったからだ。
朝食はだいたいいつも決まってオーナーが作った焼きたてのパンだった。
kが部屋の扉をノックすると、
そろりそろりと扉が開いて、白い両手だけが出てくる。
食べ物を乗せるとすぐに扉はしまってしまう。

隣の部屋のメモ魔はkの部屋にメモを落としていく。
kが初めてカプセルホテルで一夜を過ごした翌朝、床にメモが落ちている事に気がついた。
メモには
「カメレオンハイジャック」
と書かれていた。
よく見ると壁は0.5ミリほど床から浮いていた。
床にメモが落ちているのは1日に2,3枚なのだけど
日によって10枚の時もあれば、1枚の時もある。
ただ決まって毎日メモは部屋の床に落ちていた。
「カナリアのたこ焼き」
「わびさびのとこしえ」
「天空の犬」
「消えた三毛猫シスターズ」
「肉まんの約束」
「空を落として」
特に意味は分からないが一応メモは取っている。

白い球体は時折隣の部屋に行っている。
0,5ミリほどの隙間をするりと抜けて。

kは仕事が終わると、ベットに寝転んで空を見ている事が多くなった。
そのときには何も考える事が出来ない。
頭の中のスピーカーのボリュームがどんどん小さくなりポツリと消えてしまう。

夜になると公園のカプセルにランタンの明かりが灯り出す。

公園に住む源さんは
「朝起きるとランタンがカプセルの前に置いてあって、
綺麗だから電気の代わりに使っている」
と言っていた。

ランタンの明かりは赤だったり、黄色やピンクだったりする。
目玉と目が合ってからは思う存分、夜の世界を楽しんでいる。
たまにホテルの前の川にはワニがやってくるのだとオーナーが言っていた。
川の底から2つの光が見えるとき、
kはワニかな?と思うのだった。

川からはみ出した魚が1匹2匹と部屋に入ってきて泳ぎ回っている。
白い球体は魚を飲み込み咀嚼して、ペッと吐き出す。
吐き出された魚は次々に川に帰っていった。
そうしている内にいつのまにか
kは眠っていた。

公園に行って源さんと話しをするのもkの日課となっていた。
源さんには仲良しの野良猫がいる。
三毛猫の三好さんだ。

「三好さん、最近私の布団の中に入ってきてくれるので、眠るときとても温かいよ」

三好さんはいつも念入りに毛繕いをしている。
kは三好さんをまだ見かけたことが無い。
源さんと話しをするときは三好さんはカプセルホテル周辺の探索に出かけている。

「三好さんと私の関係は自由なんだ」
と源さんは言っていた。

カプセルホテルに戻るとエレベーターでマラカスの男とすれ違った。

「こんにちは。」
マラカスの男は軽快なリズムでマラカスを鳴らしながら
これ以上は笑えないくらいのまぶしい笑顔で挨拶してきた。
「こんにちは。これからお仕事ですか?」

「はい。今日は新作のカクテルをお披露目する日なので。
あっそうだ。良かったら今晩お店に来てくださいよ!」

「今晩ですか?」

「もしよかったらね。一応、名刺渡しておくからさ。」

そう言って渡された名刺は手書きだった。

BAR パタゴニアの沼
オーナー 阿吽としひこ

その日の夜
kはパタゴニアの文字に惹かれ、行ってみることにした。

「おう!良く来たね!ささ。座って。
お酒は飲めるよね?」

「はい。少しなら。」

何時もはマラカスを巧みに操るマラカスの男はバーテンダーとして
カクテルを作っていた。
店内にカクテルを振るカラカラと音が響いている。

「はい。どうぞ。地中海の嗚咽。」

味はフルーティーで美味しかった。
店内にはマラカスの男とkしかいなかった。

マラカスの男はそれ以上話すことはなく
地中海の嗚咽を飲むkを遠くから見守っていた。

「美味しいです。」

「そうかい。」

それっきり会話することはなかった。

マラカスの男は店ではとても無口な男だった。

店内には大きなスクリーンがあり、
スクリーンで流れていたのは「ガープの世界」
ビートルズのWhen I’m Sixty-Fourが流れていた。

「鶏」

マラカスの男は突然話し始めた。

「小さい頃、鶏を飼っていたんだ。
俺は一つの卵を大事に大事に育てて孵化させた。
生まれたてのひよこは俺のことをお母さんだと思って
ピヨピヨ言いながら俺の後をついてきたんだ。」

「ピヨピヨですか。」

「ピヨピヨだ。
おれはそいつにガープって名前を付けたんだ。
ガープは立派な鶏冠を持って、いつも堂々と歩いていた。
あるとき学校から帰るとガープがいなかった。
親に聞いても知らないというばかりで。
ばーちゃんに聞くと締めたって言うんだ。
今晩の唐揚げになったんだよ。ガープは。
俺は泣いてばあちゃんをグーでパンチして、
くそばばあ、しね!と言ったんだ。
そしたらばあちゃんはものすごい力で、俺に平手うちしやがった。
俺は2,3メートル吹っ飛んだよ。
「このくそガキが!死ねなんて言葉を気安く使うんじゃないよ!
今までさんざん鶏を食べておいて今更何言ってんだよ!
くやしかったらなあ、その鶏の命の分まで懸命に生きてみろ!精一杯生きてみろ!」って言ったんだ。」

「強烈なおばあちゃんですね。」

「それで俺は泣きながらガープの鶏冠を持って河にいった。
立派なガープの鶏冠を近所の河に流した。
今まで河は見たことないだろうし、あの鶏冠なら水の中を泳げるだろうって思ったんだ。
二度と家には帰らないつもりだったけど、
ものすごくお腹が空いてぎゅるぎゅる鳴っていた。
それで結局家に戻ったんだ。
俺がガキの頃は、家はものすごく貧乏だったし、
肉は貴重だったから時々自分たちで鶏を締めていたんだ。
テーブルの上にあった唐揚げを見ると、泣けてきた。おいおい泣きながら食った。
上手かった。今まで食べた唐揚げの中で一番上手かった。
ガープは俺の中で俺になって、俺の1部はガープなんだ。
だから命を頂いたからには、しっかり生きねばとあのとき強く思ったんだよ。
だから俺はいつもマラカスをならしているんだ。」

「マラカス?」

「ああそうさ。マラカスを鳴らすと俺の中のガープたちが喜ぶんだ。」

「ガープ達?」

「今まで俺が生きるために食ってきた命たちだよ。
今の俺は色んなガープ達で出来ているから、
もはや自分が誰なのかよく分からないんだが、
俺は俺の感じる心地よさをすごく大切にしているんだ。」

そういうと思い出したかのようにマラカスを鳴らし始めたので、
kは店を後にした。

kは今まで自分が食べてきた命について考えてみた。
食べてきた命の重さを感じてみると
ポケットに手を入れ口笛をふきたくなった。
久しぶりに口笛を吹いてみたものの
音のない空気だけが頼りなく口から出ていき
グレープフルーツの香りが鼻に広がっていった。
地中海の嗚咽は歓びの嗚咽だろうか。

寒くて酔っているせいか足下がふらふらとしていた。

タクシー乗り場に行ってタクシーに乗ろうとすると
タクシーはkを通り過ぎて行ってしまう。

3代目のタクシーはようやく止まってくれた。
タクシー運転手の名前は平目と書いてあった。

「お客さん、インドの南端に行ったことある?」
甲高い平目の声が車内に響いた。

「ないですよ。」

「いや、私ね、先日インドの南端に行って南極を見てきたのよ。」

「えっ?南極?」

「そうよ。あれ?お客さん知らなかった?インドの南端からは南極が見えるんだよ。」
「知りませんでした。」

「そう?私も知らなかったんだけどね。それで不思議なのがインドって暑いでしょ?
でもね、南端はあんまり暑くなくて、海の向こう側には南極でしょ。
白い大きな雪の山が見えていたよ。
私はツアーで行っていたんだけど、ガンジス川の向こう側か
南極探検か選べてね。
私は初めてのインドだったし、ガンジス川の向こう側に行くことにしたんだ。」

「何ですか?ガンジス川の向こう側って?」

「ガンジス川の向こう側にはいくつもの岩を渡って行くんだけど、
いやー過酷な旅だったよ。
結構流れも速いし、必死で向こう側に渡ったよ。
向こう側はそれはそれはもう綺麗な白銀の世界が広がっていたんだよ。」

「白銀の世界?」

「ああ。それで沢山写真を撮ったんだけど何も写っていなかったんだ。
一体私はどこに行ったのか思い出せずに日本に帰って来たのだけど、
今お客さんの顔を見て思い出したよ。
ガンジス川の向こう側だったってね。
それで南極ツアーに行った人ともすれ違ったんだ。
ふと気がついたのは、南端の向こう側もガンジス川の向こう側もつながっていたんだよ。
同じ南極だったんだ。
あーすっきりした。
そうそう。本当にあんなに真っ白な世界は始めて見たよ。」

「僕はインドに行ったことがないし、
地理も詳しくないからよく分かりませんが、インドの南端は南極になっていたんですね。」

「そうだよ。世界はすごいスピードで変化しているんだ。
ところでお客さん、肩に乗っている白い球体を取られないようにしなくちゃ。
この辺の河にはワニがいるからね」

タクシーの窓は少しだけ開いていた。
冷やっとした夜風がkのほほに触った。

「ワニですか。よく見かけます。」

「気を抜いたらダメだよ。パクッと食べられないようにね。」

その日の夜は蛸が部屋にやって来た。
蛸はしばらく部屋の四隅にうずくまったり、
kの靴の中に入ったりして
たゆたゆと泳いでいた。

白い球体は蛸を飲み込もうとしたが、
魚の時とは違ってなかなか飲み込むことが出来なかった。
蛸は8本の足で白い球体をつかんだり離したりして遊んでいた。
白い球体もされるがまま
なのでおもしろくなかったのか
蛸は窓から河に帰って行った。
蛸が河にぽちゃんっと落ちると、水面から顔を出していたワニも河の中に潜っていった。

10時を知らせるラッパの音が辺りに響くと
kは電気を消した。

河の向こう側に見える公園のランタンの
赤、緑、黄色、青、ピンクの柔らかく
色とりどりの明かりは静かに夜空を浮かんでいるように見えた。
kは目を閉じた。
ランタンの明かりは瞼の裏側でも優しく灯っていた。

河の向こう側では
また一つ街が消え

オリオン座の三つ星は残り一つになった。

星の光は弱くなったり強くなったりを繰り返しながら雲間に隠れていった。

kの眠る部屋の床には
「永遠のかくれんぼカプセル船」
とメモが1枚落ちていた。

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