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おせっかいでいいじゃないか、とことん。

『せっかくだから』という行為。
基本的にありがたく、ただ、時にいきすぎるとおせっかいにも感じてしまうこの“せっかくだから”という考え方を、改めて私はガシガシと推奨していきたいなと思います。

そう思ったきっかけは、とあるアンケートフォーム。
回答してもらったフォームを見た発信者の私は、驚きました。一人の回答だけ、コメントがギッチリ。中身はありがたすぎるフィードバック。めちゃくちゃ時間をかけてフォームに記載してくれたのが一瞬で分かる、そんな内容でした。

フォームを見て直後に思わずお礼を送ったら、「むしろ一言だけの方が失礼だと思って」と本人からの返信。この“せっかくだから”に敬意や色々なポリシー、想いを感じ、タイトルにもつけたおせっかいでいいじゃないかと言うワードが頭にポンと浮かびました。


良かれと思っての行動が、相手にとってはおせっかいに感じたりよくなかったり、、、そう言う経験があるから基本的に一歩引いておこうってとどまること、あると思います。
私もここまで出かかった言葉を飲み込んだり、遠慮して待ったり、忖度と言う言葉が合っているのでしょうか、それが美徳にさえ感じることもありますよね。利己か利他か。


ただ、プログラムされたことを愚直に遂行するAIのように私たちはなってはいけない。これからの時代、AIやロボットたちにますます仕事を奪われていっても、それと私たちが共存していくためには、情緒とかその時の瞬間的な迷い・葛藤を見逃さずに『自分がされたら嬉しい、心地の良い方』に素直でありたい、こう思うんですよね。

1対大多数のような汎用性のある間違いのないやり取りも大事だと思う一方で、1対1の瞬間的な魂のやり取りのようなものに、これからますます個性や色が出てくる時代になるんだと思うのです。

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自分が正しいと思うその価値観こそ
個性でありその人そのもの。


迷うこともあっていい。正解なんて分からない。それは前も今も何も変わっていないのに、SNSで発信しやすくなった今だからこそよけいに迷う。おせっかいになっていないだろうか、迷惑じゃないだろうか。。

ただ、迷っている時点でその視点を持てている(迷うことさえなかったら一方しか見れてないのかも)のだと思うと、迷ってそれでも「えいっ」と選択するそのスタンスが自分で納得できるものであれば、悪気がなく自分がされて嬉しいことなのなら。

わるい人なんてきっとこの世にいなくて、伝わり方や切り取られ方が違うだけと思って、“自分にとっていい人”で自分の正義を信じていいんじゃないかと私は思います。

相手のためを思ってのフィードバック、きっとよくなると信じる気持ちゆえの助言。そういうコミュニケーションにこだわっていくことで個性は磨かれ自分らしさが確立されていくのかなと感じて。


それなら、とことんおせっかいでいいじゃないか。
一周まわってそう感じた、今日はそんなことをまとめてみました。

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