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西バライ ふたりのクメール人の帰郷

ほんと~~に久しぶりに、遠出ならぬ、中出をしました。車で1時間ほどの西バライ(バライ=貯水池)です。このバライはアンコール朝11世紀に建造されたもので、東西8キロ、南北2.1キロの長方形をしており、現在も満々と水をたたえて灌漑用水として利用されています。ちなみに、アンコール・トムをはさんで東側に建造された東バライの方はすでに干上がって、村落が形成されています。

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バライの南側にあるアック・ヨムというヒンズー教の寺院遺跡。7世紀に建造されており、バライが建造される前はこの辺りが中心地であったといわれています。ほとんどが崩落して残っているのはこの部分だけです。

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正面に見える陸地は、バライの中心部に造られた人工島で、中央にヒンズー教の西メボン寺院があります。バライは灌漑用ではなく、メボン寺院を中心とした,、ヒンズー教の天地創造の海を象徴する場所ではないかという学説もあるようです。島までボートで行くことができますが、現在はフランスチームを中心に発掘調査が行われており、寺の中に入ることはできません。

2019年8月に名古屋から友人たちが来てくれて、ボートで島に向かったことがありました。最後にはボートから農業用トラクターに乗り換えて上陸です。その時の画像があったので貼り付けます。

このボート乗り場があるあたりまでは観光客も訪れるので、土産物屋なども数軒並んでいます。私たちのお目当てはここではなく、10分ほど木立に囲まれた道をバライに沿って西に進むと、水辺に向かって20軒ほどのローカルな桟敷が並んでいるのです。

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Covid の影響でここもしばらく閉鎖されていたのですが、きのうは数軒が店を開けていました。雨期の後半になると、水位は桟敷の床下くらいまで上がるそうです。ヤシの葉っぱで屋根を葺き替えている店もありました。

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本来なら、ここはシェムリアップ市民の憩いの場であり、家族連れや職場のグループ、若いカップルなどで週末は席がなくなるほど賑わう所です。

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ここの名物は地鶏の炭火焼きですが、なぜかセイハーは魚の方を注文しました。私はといえば最近は暑さのために食欲がまったくなく、もっぱらビールのみです。コオロギや何かの蛹などの昆虫食グッズを並べたお盆を持って村のおばちゃん達が売りに来ますが、いつもなら私が好きなバナナの皮で巻いたチマキとか米団子などあるのに、多分日持ちしないからでしょう、何もなくてがっかり。仕方なく、ツマミはカットパイナップルでした。

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こんなかわいい子が料理を運んでくれました。

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ランチタイムだったので極簡素に。

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食べた後はワンコがかたずけてくれます。

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食後は水浴び。

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ああ、さっぱりした。

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ハンモックでまったり。水面を渡る天然の扇風機が稼働して極上の時間です。ひとたびここで昼寝の味を覚えたら、もう街のレストランへなど行きたくなくなります。もちろん何時間いてもOK、料金は全部で7ドルほどでした。

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貸し浮き輪などもあって、子供たちは水遊び。ここはバライの南西の角になります。

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この写真は2018年9月に撮りました。カンボジアに居を定めてまもなくの頃です。

釣りをしているおじさんがいたのでちょっと話しかけてみました。すると意外にも完璧なネイティブイングリッシュが返ってきて、あれ?と思ったのですが、彼は、子どもの頃に渡米して今もアメリカで暮らしている、自分の故郷を見に来て、明日またアメリカに帰るところだというのです。

恐らくは、そしてほぼ間違いなく、彼は1975年のロン・ノル政権崩壊時に家族に連れられてアメリカに亡命したのでしょう。当時アメリカまで行けたということは、政権のかなり上位にいた人たちか、よほどの資産家だったはずです。彼は10歳そこそこの少年だったと思うのですが、崩壊時の修羅場は見てきたはずだし、その後のポル・ポト政権が何をしてきたのかも学んでいることでしょう。

私は喉からあふれ出そうなくらいの質問の数々をぐっと呑み込みました。50代後半くらいに見えたその男性は、いかにもクメール人といった赤銅色の皮膚と濃い眉をもっていましたが、物静かというか、むしろ哀しげな口ぶりで、水面に目を落として何かを思い出そうとしているように見えました。‶帰郷できなかった″余多の人々のことを考えて心が沈んでいたのかもしれません。

夢にまで見た故郷を目の当たりにし、そしてもしかしたら最初で最後の帰郷になるかもしれない彼の宝石のような貴重な時間に、通りすがりの私が嘴を差し挟んではならないと思い、そっとその場を離れました。

もうひとり、似たような経験をした人を知っています。彼の家族もまた同時期にアメリカに亡命したのですが、カンボジアに平和が戻ってから、自分だけ帰郷したのです。彼に帰郷を決意させたのは馬で、アメリカ時代にその魅力にとりつかれ、故国に帰って牧場を持って馬と一緒に暮らしたかったからだそうです。彼の大邸宅は、シェムリアップ市内にあるのですが、森林に囲まれていて外側からは何もわかりません。

ここでは、‶馬の飼料代のため″に、一般観光客を受け入れていて、馬に乗ってシェムリアップ郊外を散策することができます。ただ、大きく宣伝しているわけでもなく、お馬さんファーストで、予約制です。乗る人間の体重制限があり、予約するときに自分の体重を告げなければなりません。体重に合わせて、その日の体調がいい馬を選ぶのだそうです。厩舎や馬具はきれいに整えられており、馬もピカピカに磨かれていました。

やはり50代後半かと思われるこの男性とは直接口をきいたことはありませんが、働いている人たちがみな生き生きと楽しそうで、そこが‶いい職場″であるということを証明していました。きっとおじさんも人生の最期を大好きな馬たちと一緒に過ごせて幸せな毎日を送っているんだろうなと思います。

バライには時々来ることがあるのですが、私はいつも同じ桟敷に入って、今はアメリカにいるであろうおじさんのことと、‶帰郷できなかった人々″のこと、‶幸運にも″生きて強制収容所から帰還することができたセイハーの両親のことなどに思いを巡らせています。











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