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薛家坪(シュエジャーピン)

50キロほど離れた臨県(臨県の行政所在地も臨県)という町に行って、ターミナルで帰りのバスを待っていた間、数人の男たちがかたまってなにやら私の方をジロジロ見てはぼそぼそ話し合っていました。そのうちにひとりの男が近寄ってきて「あなたは日本人じゃないですか?」というので聞いてみると、私が3月に来たときに自分の運転するバスに乗せたというのです。いわれてみれば、先回バスの中で日本から来たということをいった覚えがあります。

彼は、自分の弟が今日本に留学しているので、ぜひ家に遊びに来てほしいというのです。そして村の名前と携帯番号を渡してくれました。後日、私はこんな田舎から日本に“留学”しているというのに興味を持って、彼の家を訪ねてみることにしました。

臨県行きのバスに乗って、運転手に村の名前を告げると、1時間ほど走ってから、「ここで降りてあの道をまっすぐ行って、川を渡れ」と教えられました。この川というのは、磧口で黄河に流れ込む湫水河です。

15分ほど歩いて川に出たのですが、見渡してみても橋というものがありません。どうやら普段は飛び石を並べてその上を渡っているようですが、ちょうど前日に雨が降ったので水量が多く、それらしき石組は濁流の中に半ば水没していました。

私はあきらめて帰りかけたのですが、そこへ村の若者がやってきて、川を渡ればいいんだと事もなげにいうのです。しかし透明度ゼロの濁流が轟々と流れる川を渡るなんて、川底がどうなっているかもわからないのに、いくらなんでも危険過ぎます。ところがその若者は、尻込みする私のズボンの裾を勝手にまくりあげて、私の手をとり、強引に川の中に突っ込んだのです。

まるで被災地から緊急避難するかのようなあわただしさでしたが、とにかく渡河作戦は成功しました。

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到着した村は人口1000人ほどの村で、薛家坪、つまり薛(シュエ)さんばかりが住んでいる山間の平地にある村です。近くにいた子供たちに聞くと、目的の家まで案内してくれました。            (2005-07-05)

海の見える町
薛ヤンジンは、まさか私がほんとうに来るとは思っていなかったようで、びっくりして部屋の中からころがり出てきました。そして同じ並びのヤオトンの住人たちにひとしきり日本人が来たことをふれて回ったのです。彼らが生まれて始めて見た生の日本人の感想は、異口同音に「アイヤー、中国人とちっとも変わらないねぇ」。

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弟さんのことを聞いてみると、予想したとおり、留学という名の出稼ぎでした。お父さんが日本から来た手紙と、満開の桜の下で微笑む息子の写真を見せてくれたのですが、そこには浜松市の住所が記されていました。どうやらオートバイの下請工場のようです。太原に出稼ぎに行っていたときに知り合った仲間に誘われたそうで、3年契約だといっていました。

「息子さんから手紙はよく来ますか?」
「いいや、ときどき電話がかかるよ」

「日本での生活は順調に行ってますか?」
「ああ、とても楽しいといってるよ」
「そうですか、それはよかった。浜松という町は冬でも暖かくて、とても気候がいいところですよ」

「そうかい。海は見えるんだろうか?」
「海辺の町だから、ちょっと高いところに登れば目の前は全部海です」

この地方に生まれ育ったフツーの人たちは、生涯海を見ることはありません。彼は家人が持ってきた社会科の教科書を広げて、海の色に取り囲まれた小さな日本地図を、いとおしむようなまなざしでじっと見つめていました。そのときの彼の目には、きっと海辺に立ってお父さんに手を振る、かわいい末息子の姿が見えたに違いありません。         (2005-07-06)


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