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帰って来たカタツムリとハルビンの思い出

なんとも不思議なことがあるものです。私が「カタツムリに逃げられた」と書いたのは先回ですが、それはもう1か月以上も前のことです。そもそも、殻の直径が10センチもある大物なんて、それまで見たこともなかったし、逃げ出して以降も一度も見たことはありませんでした。

それが、昨夜午後8時頃、(多分)逃げだしたカタツムリが我が家の庭に戻って来たのです。しかも、逃げた時は1匹でしたが、なんと家族を連れて3匹で帰って来ました。ちょうど私が庭に出たタイミングで顔を合わせたのですが、不思議なご縁です。

しかし、これまたずっと不思議に思っているのですが、カタツムリの殻というのは、軟体部と繋がっていて、ヤドカリみたいに引っ越すことはできません。ということは、これは時間と共に大きく成長するのでしょうか?それとも脱皮?確かに、庭にカラになった殻はよく落ちています。イヤイヤ、殻から離れた軟体部は死んでしまうはずだから、やはり徐々に大きくなるのでしょう。しかし、あれはカルシウムでできているはずだから、そんな短い期間に大きくなれるんだろうか?

この写真を撮った後、逃がしてやりました。

今はプランターに入れて、キャベツと卵の殻を入れて、時々水をかけていますが、まあ、しばらくしたら、また高い塀の向こう側の空き地に投げ込んでやりましょう。

そうそう、カタツムリは広東住血線虫という、何とも恐ろしげな名前の寄生虫を持っていることがあるらしく、それは脳を直撃するみたいで、私も軟体部には触らないようにしています。恨みをかわないためにも、早めに逃がしてやった方がいいですね。

脱皮といえば、コオロギの脱皮を見ました。他の個体に襲われないようにか(コオロギは共喰いをする)、ケースの一番隅っこに行って、ウンウン唸りながら(?)ひとり脱皮して、脱皮後の殻は食べていました。今は私の部屋の中にいるのですが、そろそろ繁殖の準備が整って鳴き出すはずなので、さすがにそれは耐えられないから、どこに置こうか、今から悩んでいます。なぜなら、我が家は昼はトカゲ、夜はヤモリの巣窟で、彼らの垂涎の的こそが、コオロギなのです。みんなすっかり大きくなって、背中の羽が美しい模様を描いています。こんな模様があったなんて、初めて知りました。

この子は栄養がいいのか、まるまる肥って、肌艶もいいです。
このカエルは、しょっちゅう私の車に貼り付いています。

ここで話はまったく飛んで、最近の YouTube から。

先月27日に行われた“国葬”で読み上げられた、菅前首相の美文調の弔辞が話題になっています。“心に響く弔辞であった”と、メディアでも高評価のようです。確かに、“国葬”ではなく、安倍家の葬儀の席でならば、居並ぶ参列者たちの涙を誘うことは間違いなかったでしょう。

しかし、最後に読み上げられた、「かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」という歌が、暗殺された伊藤博文を偲ぶ山縣有朋の歌であったということを知って、私の思いは即座にハルビンへと飛んでゆきました。

私はカンボジアに来る前、中国には18年ほどいましたが、ハルビンを訪れた回数は特別に多く、20回近くは行っていると思います。様々な出会いがあり、様々な出来事に遭遇し、いろいろなものを見てきました。

山縣がかたりあったという人とは伊藤博文。1909年にハルビン駅で安重根に暗殺されたという事件は、ここをご覧になっているみなさんはもちろんご存知のことでしょう。

初めてハルビンを訪れたのは、中国で暮らすようになる前ですから、今から30年近くも昔のことですが、街の巨大さと貫禄(上海の外灘を見てもそう思う)、帝政ロシア時代に建造されたアール・ヌーヴォー様式の建物が並ぶ、キタイスカヤ大通りの威容に圧倒されたことを覚えています。その後徐々に観光地化もされ、2012年には、新幹線の開業とともに新しくハルビン西駅が完成して、ハルビン駅の乗降者数はずっと減ったとは思います。

私が西駅を使ったのは2度だけで、あとはすべてハルビン駅でした。そのハルビン駅もずいぶん長い間新・改築工事が行われ2017年にようやく終わったようです。そして新しいハルビン駅の駅舎の中に、「安重根義士紀念館」(初代韓国統監を務めた伊藤博文を暗殺した安重根は、日本ではテロリスト、韓国では英雄、中国では義士)が開館されました。ほんの小さな施設で、歴史資料や遺品などが陳列されていますが、民族感情をあおるような派手目な場所では決してありません。

入場無料ですが、私が行った時は2回ともほとんど人がおらず、受付もないので閑散としていましたが、実はこの資料館にはある重要な“仕掛け”があるのです。

ネットから拝借

細長い資料室の突き当りは、ハルビン駅の1番プラットホームに面しており、そのガラス窓の向こう側に、暗殺現場となった場所がよく見えるのです。伊藤博文が狙撃された場所と、安重根が狙撃した場所の敷石に印が付いています。その間、ほんの10数歩。現在は標識が出ているようですが、私が行った当時は何も印されてなかったので、それに気づく人もなく、乗降のたびに多くの人たちが忙し気に敷石の上を通り過ぎて行きました。

この事件の後に韓国は併合され、日本は軍国主義の道をひた走り、やがて原爆投下へと転がり落ちて行ったのです。それが山縣が伊藤の死に際して「今より後の 世をいかにせむ」と思い描いた日本国の行く末だったのです。

もうひとつハルビンには辛い思い出があります。郊外に、満蒙開拓団が入植したかなり大きな村がありました。そこにはかつて開拓民たちが暮らしたレンガ造りの住居が今も(私が行った当時)残っていて、そこでは普通の中国人が暮らしていました。部屋の中も見せてもらったことがありますが、冬には-20℃も30℃にもなる極寒の地で、どんなにたいへんな生活だったろうと胸が痛みました。

その後に、ある関係者から、ある連絡が入りました。その村が開発されることになったけれど、その開発区域の中に日本人の集団埋葬地がある。遺骨を収集するように連絡をとってもらえないだろうか、という話でした。

私などにはとんでもなく大きな話でオタオタしましたが、満蒙開拓団は日本政府を経由して集団で入植しているので、開拓団の出身母体は調べればわかります。私はとにかくその出身母体(それはある宗教団体でした)の本部に連絡を入れました。電話口に出た若い男性は、ビックリしてすぐに上部に連絡を入れて折り返すということでしたが、高齢者の中にはやはり知っていた人はいたようでした。その人たちは生きて日本に帰ってこられたのです。そして同じ集団の中でも若い人たちに語り継ぐことなく、ひっそりと口を噤んだままに余生を送ってきたのでしょうか。

数か月後に事務局から連絡が入り、丁重な謝辞と共に、「日本政府が動かなければなんともならない」という寂しい返事でした。

両手両足を持って、ボロ雑巾のごとく穴に遺体を投げ捨てるところを直接見たことがある、という老人にも会いました。埋葬地とは名ばかり、“ゴミ捨て場”のような所だったのです。彼の地では恐らくは遺骨が掘り上げられることはなく、そのまま開発が進み、あの草生した窪地の上は公園か何かになっているのでしょう。

「いつか祖国に帰りたい」という、たったひとつの希望をかき抱いて、飢えと寒さと恐怖に、文字通りぴったりと身を寄せ合いつつ共に斃れた百を数える遺骨が静かに眠っている、あのハルビンの村へ、私はもう一度行って見たいと考えています。

こういう話は何も“満州”にかぎったことではありません。私が12年間暮らした山西省の寒村でも、日中戦争末期には日本軍と黄河を挟んだ対岸に位置する八路軍(共産党軍)の間で小規模な戦闘が頻発しました。山西省に出兵経験のある歌人宮柊二が、「飛ぶ鳥すら見ない……」と歌った、荒れ果てた山野に“名も無き”若き日本兵の屍がたくさん眠っていると、元八路軍兵士たちから何度か聞きました。これらの老人たちも今はすでにこの世を去っています。

生前の安倍首相の判断はすべて正しく、この歌は今の自分の気持ちにぴったりだという菅前首相の思い描く、「今より後の世」がどのような世界なのか、あのセンチメンタルな美文調の弔辞を絶賛する人たちは、その歴史的背景と経緯を学び直してもらいたいと思います。

*カタツムリからハルビンに飛んだのは、キタイスカヤ大通りの入り口のアーケイドに、なぜか大きなカタツムリの絵が描いてあったという記憶があるからです。中国では蝸牛という生き物にどんな位置づけがあるのか、調べておきます。ちなみに蟋蟀(こおろぎ)は、蟋蟀相撲というものがあって、それは闘犬のような賭け事です。オスのコオロギはかなり闘争的な生き物のようですが、何でもバクチにしてしまうのは、中国のお国柄ですね。




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