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旅の終わりが新たな旅の始まりの旅 1

私はカンボジアに移住することを決めるちょっと前まで10数年間、長野県松本市にある私立高校の嘱託職員をやっていました。その間もほとんど中国にいたわけですが、私の仕事は、年に1度の生徒たちの旅の企画と、現地での添乗、会計をすることでした。

いわゆる‶修学旅行″ではなく、自由参加で、だいたい10数人から20数人程度の‶研修旅行″です。私の拠点は中国だったので、主に東北地方、旧満州国の遺構を訪ねたり、現地で日本語を学ぶ中国人学生との交流がメインでした。

いわゆる‶フツー″の旅ならば、経験豊富な大手代理店に依頼した方が安全確実なのはいうまでもないのですが、この高校自体がとてもユニークな学校で、フツーの旅ではない、‶旅の終わりが新たな旅の始まりとなるような旅″をコンセプトに、学校側のスタッフ共々、毎年様々なプランを組み立てました。

実はスタッフ側からいうと、この旅にはひとつの大きな目的がありました。参加するのは大学受験を控えた3年生がほとんどでしたが、当時は‶小論文入試″というシステムが盛んな頃で、参加者たちにこの旅を通して、小論文のテーマを見つけて欲しいという目論見があったのです。

なので、生徒たちはレポート用紙持参、夕食後に毎晩ミーティングとディスカッション、その夜のうちに短いレポートを書いて翌朝提出というノルマがかかっていました。もともとそれを承知で参加していましたが、毎日毎日がそうとうにハードで、はらはらさせられることもたびたびでしたが、一日一日生徒たちが‶成長″してゆくのが傍目にもよくわかりました。

当初はもっぱら東北地方で、大連、瀋陽、撫順、長春、ハルビン、最北はチチハルまで、私は下見と本番で、実に何度も何度もこの地方は訪れました。先回書いたモスリムの埋葬をみせてもらったのは、この下見の時です。

私には、日本では見ることができない「国境」というものを、生徒たちに見て欲しいという思いがあり、ほぼ毎年どこかで‶国境を見る″プランを挿入していました。

最も多く訪れたのは、北朝鮮との国境の町、遼寧省丹東です。鴨緑江を挟んで対岸が北朝鮮の新義州で、中朝貿易の最大の拠点となっており、丹東駅には鴨緑江にかかる鉄橋を渡って毎日1便、ピョンヤン-北京の国際列車が到着します。物流は主にトラックで、(多分決められた)時間になると中朝友諠橋を大型トラックが列をなして行き来し、街中でも北朝鮮ナンバーの車両をみかけることになります。レストランの近くのテーブルが北朝鮮からのお客さんだったりもしました。(一般観光客ではなく、政府関係者。北朝鮮国旗のバッジを付けているのですぐにわかります。)

中国人にとっても、ここは異国風情を売る一大観光地となっており、鴨緑江を巡る観光船がひっきりなしに出ていて、対岸の北朝鮮領土ぎりぎりまで接近します。(こうやって観光船で他国をジロジロみるのはイヤだなぁと内心思いつつも)水浴びをしている子どもたちや、投網をかけている青年たちや、道を歩いている老人たちにも十分声が届くくらいの距離まで接近し、北朝鮮の山野も指呼の距離となります。

一度、参加した生徒が、北朝鮮の森林が破壊しつくされ、こちら側の中国とはまったく違った風景となっているのを見て驚愕し、それまでの志望を農学部に変えて、森林再生の技術を学ぶことになった、といったこともありました。

ここは、韓国からの観光客も多いのですが、その中には、朝鮮戦争で分断された親族、友人たちを偲んで、今は自由に行くことのできないかつての祖国を望む、人たちがやってくるのです。時おり、じーっと対岸を見つめ続ける、チマチョゴリに身を包んだ高齢の女性の姿なども見られ、胸が締め付けられました。

日本にはない「国境」というものには、歴史がありドラマがあり世界の縮図が垣間見え、物流も人の往来も日常的にそこに存在しているのです。それまでの価値観をぶっ飛ばされた生徒たちは、その時もそれからも、レポート用紙と日夜格闘しながら大学受験を目指すことになります。もちろんそれだけが目的ではありませんが、社会人となった今も、おそらくは深く心に残る旅として、時々は私のことも思い出してくれているかも知れません。

そして2016年、その頃はすでに南の国への移住を考えていた私は、一転、南の国境を越える旅を企画しました。中国から歩いて国境を越えてベトナムに至る旅です。

今回は、生徒たちのプライバシーの問題もあるので、保存してあった過去ログに私が少し手を加えました。また、このレポートは、本来ツアー参加者の保護者向けに、‶安否確認″が目的で学校のHPに毎晩アップしたものなので、内容的には、しごくサラリとしています。

上海外灘上陸 (2016年12月1日)

12月1日、私は上海外灘で、生徒たちがやってくるのを今か今かと待ちました。今回のメンバーは、2日前に大阪の港を出発し、鑑真号という名の国際フェリーでやってきたのです。昔は船の方が安かったので、私自身もたびたび使ったものでしたが、今や航空券(LCC)はかつての1/4になり、より高額で時間のかかる船旅など、誰も選ばなくなりました。かつては、燕京号という天津に着くフェリーもあったのですが、これはなくなりました。

あとで聞いたところによると、乗船のおり、船会社のエライさんが、今後ともどうかよろしくと、酒2本を持ってご挨拶にみえたそうです。(ちなみにその酒は、喜んで私がいただきました。)

残念ながら、埠頭に出ることはできず、接岸した鑑真号の勇姿を写真におさめることはできませんでしたが、生徒7名とスタッフ2名、総勢10名が元気な顔で合流できました。50時間の船旅は天候に恵まれて楽しい、そして得難い経験になったようです。

そこから歩いてホテルに向かいチェックイン。昼食は、上海名物食べ放題の飲茶で、さぞかしみんなあぁ中国に来た、と満足してくれたことでしょう。私はその間、列車のチケットを受け取りに上海駅まで行っていたので、哀しいかな何も食べることはできませんでした。

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日が短い季節なので、あっという間に夕暮れになり、みんなで外灘見物。写真で見たことがある“有名”な建造物が目の前にずらりと並んでいます。この大迫力と歴史の重みに圧倒されながらも、生徒たちは、わいわい賑やかに、歩いて国境を越える旅のスタートを切りました。

上海街角ウォツチング (2016年12月2日)

翌日午後、私たちは3つの班に分かれて行動しました。「グルメ・ショッピング班」と「日本人の設計による上海の建築群見学班」と、「上海下町ウォッチング班」です。

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私は下町班で、以前行ったことがある「老西門」という地区に行ってみました。地下鉄の出口を出るとすぐ目の前にこういった風景が広がります。

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昨夜は、煌びやかにライトアップされた外灘の風景に目を見張り、午前中は世界の金融の中心ともなっている陸家嘴で、上ばかり見て首が疲れ、そこから地下鉄に乗って20分でこの風景ですから、あっけにとられたといってもいいでしょう。あとで聞いたところによると、上海でもこういった下町風景が残っているのは、もうここだけなんだそうです。

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町の中央部に「孔子廟」がありました。日本でいえば「天神様」のような存在です。内部はきれいに手が入れられていて、町の雑踏とはかけ離れ、心静かにモノを考えるには絶好の場所です。

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受験生ですね、孔子様に合格祈願もしました。

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なぜか「くまもん」がいました。今や世界的なアイドルになっています。

南寧へ (2016年12月3日)

今日は移動日です。私たちは、浦東空港12:05発のフライトに乗る予定だったので、いくらかゆっくりできるかなと、当初は思っていたのですが、とんでもない。上海というのは、実に広大な都市なのです。

私たちが泊まったのは、北外灘という、上海のほぼ真ん中あたりに位置するのですが、そこから東の端、浦東空港までは、地下鉄で1時間半かかるといわれたのです。その上に、浦東空港は地下鉄を下りてからが遠くて、搭乗手続きをするカウンターまで、20分ほどもかかるのです。けっきょく朝8時に出発しました。

3時間ちょっとのフライトの後、私たちは広西省チワン族自治区の首府南寧に到着しました。国内線なのに、国際線で大阪から上海に飛ぶよりも時間がかかります。そこで待ち受けていたチャーター車に乗って、一路目的地へ。

ところで、どういうわけか、この日に撮った写真が、すっからかんのもぬけの殻で、1枚も残っていないのです。すみません。とにかく、ノンストップでひたすら南下すること3時間半。割合に“恐ろしい”スピード運転でしたが、無事、徳天瀑布の徳天山荘に到着することができました。この宿は、瀑布のすぐ目の前にあって、轟々とした水音が耳に飛び込んできますが、あたりは真っ暗で、明朝のお楽しみです。

私たちは、チワン族のレストランの、チワン族料理でお腹をいっぱいにして、いよいよ明日からの“国境越え”ルートに向けて、英気を養うことにしました。みなさんおやすみなさい。


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