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我が家になぜ居候がいるのか?についての長いいきさつ

セイハーと初めて会ったのは、忘れもしない、2017年8月10日の夕方でした。

この頃私は中国に住んでいましたが、11月に松本から来る高校生のスタディーツアーのための下調べで、上海からホーチミン、プノンペン、シェムリアップと廻って、翌々日には日本に帰る予定でした。

ところが、ひと仕事終えてのんびりと最後の散歩を楽しんでいたところ、あろうことか、バイクに撥ねられてしまったのです。目の前にバイクが巨大な影になって飛び込んできた瞬間の記憶はありますが、その後は意識不明で州立病院に運び込まれ、気がついたら病棟の廊下のストレッチャーの上で点滴を受けていました。うつらうつらしていると、ひとりの若い男性がやってきて、ここは満室で治療もできないから、他へ移動しましょうと言ってきたのです。言われるままに、空港近くにある民間の病院に移動しました。というか、この間のことはほぼ記憶がなく、すべてあとからセイハーから聞いたことです。

その病院にはCT検査の機械があって、それを撮ってもらう頃にはようやく意識がはっきりしてきましたが、結果が出るまでに3時間もかかるというのです。広い病室に私ひとりだけぽつんと放っておかれました。

自分は昔から‶畳の上では死ねない″と思っていたけれど、いよいよ最後かなぁと思ったり、イヤ、この程度のことはこれまで何度もあったんだから、きっとしぶとく生き残るんだろうなぁとか、松本に残して来た荷物の整理はどうするんだろうとか、航空券のキャンセルはできるんだろうか、などなど、後から思えばどうでもいいようなことを考え続けて、すでにして懸命に脳のリハビリをしていました。

幸いなことに、脳に損傷はないということで、1週間の安静を言い渡されて、深夜3時頃、ふらつく足取りでようやくホテルに戻ったのです。長い1日でした。

頭を動かすたびに、脳が頭蓋骨の中でザザッ、ザザッと揺れて、これまで味わったことのない奇妙な感覚に捉われましたが、じきに眠りが襲って来ました。そして翌朝になると、ドアがノックされて、おかゆが運ばれてきたのです。食欲はなかったけれど、せっかくだからと一口だけ口に運んで、あとは悪いけどこっそりトイレに流しました。その後も数時間おきにフロントから安否確認の電話がかかってきたのです。いつも同じ声で、それがそのホテルのマネージャーのセイハーでした。州立病院にいた時に、私が持っていたホテルの名刺を見た人から連絡が行き、セイハーが駆けつけてくれたのです。

あとから聞いたところによると、私はバイクと正面衝突で、ポーンと空中に撥ね上げられて、脳天からまっさかさまにブチ落ちたんだそうです。しかし強運というか、しぶといというか、よほど落ちどころが良かったんでしょうね。周りにはコンクリートブロックがゴロゴロしてる所でしたから、30センチ違う場所に落下していれば即死だったかもしれません。

結局1週間、そのホテルに滞在したのですが、まるで病院にいるみたいに、心温まるケアをしてもらったのです。私はというと、脳の中のさざ波の音をバックミュージックに、これはどうやら、アンコールワットが私を呼んでいるのかなぁと、無事に回復したらカンボジアに引っ越すことを考え始めていました。

帰りがけ、セイハーに「どうしてこんなに親切にしてくれるのか?」と聞いてみたら、「僕はお婆ちゃんっ子で育ったから、放っておけなかったんだ」という答えでした。なるほど、私は孫はおろか子どもも持ったことがないけれど、こういう感じなんだろうか?と納得がいくというか、いかせました。

そして11月、10数人の高校生たちを伴って、再びこのホテルに宿泊しました。観光コースをひと通り廻り、日本語学校に通う生徒たちとも交流し、NPOで頑張っている若者たちの話も聞き、最後の夜にはセイハーも呼んで食事会をしました。その時に、高校生たちが英語でセイハーに自己紹介をしようということになり、それぞれカタコトの英語で一巡りしました。最後にセイハーの番になると、彼は日常会話にはまったく不自由なしの英語を話しますが、その時は通訳がいたからか、一気にクメール語で話し出したのです。これだけは話したかったというような熱気がこもっていて、私も思わず身を乗り出しました。

自分のお婆ちゃんは、なかなか男の子に恵まれず、ようやく生まれてとても可愛がっていたけれど、そのひとり息子が、政府軍の兵士として闘ってクメール・ルージュに殺されてしまった。長く悲嘆にくれていたけれど、そのうちに自分が産まれて、その息子にそっくりな顔立ちに成長し、それからはずっとお婆ちゃんに育てられたというのです。他の孫たちとは違って、いつも特別扱いで王子様のように育てられ、周りの人たちも事情がよくわかっていて、誰も何もいわなかったそうです。

私をストレッチャーから車まで抱き上げて移したときに、なぜかわからないけれど、死んだお婆ちゃんと同じ匂いがして、この人は自分にとっては特別な人なんだと思った、というのです。

そして、これは後になって聞いたことですが、セイハーの両親はクメール・ルージュの収容所で強制結婚させられたカップルで、セイハーに言わせると、お父さんは子どもに愛情を持たず、自分は両親に愛されたという記憶がない。お婆ちゃんだけが自分を愛してくれた存在だったというのです。

思いもかけなかったこの話は衝撃でした。カンボジアに来て、まさかクメール・ルージュと接点ができてしまうなんて。。。しかも、セイハーの両親というのは、私よりも若いのです。

実はこの時、私は日本で買った2枚のユニクロのシャツをたずさえていて、帰り際に「あの時はほんとうにお世話になりました。ありがとう。」といってシャツを渡してキリをつけるというか、もちろん狭い町だからどこかで会うかも知れないけれど、特に連絡を取り合うようなことはないだろう、と思っていました。しかしこの話を聞いたときに、「この子とはきっとまだまだ縁が切れないな」という予感がしたのです。

そして翌年3月、12年暮らした黄土高原を後にして、いったん日本に帰り、5月、次なる居住地はカンボジアと定めて、関空からエアアジアに乗り、クアラルンプールで乗り継ぎ便を待っていると、セイハーからメールが入りました。勤めていたホテルが急に廃業になって、明日から仕事がない!どうしよう!というのです。彼はその時私がカンボジアに向かっている最中だなどとは、もちろん知りません。

ここまで来て、これはもうどうしようもない‶縁″だと、私は覚悟を決めました。さっそく彼と会って、とりあえず2年間でメドを立て、小さなゲストハウスか旅行社を始めようということで話がまとまりました。その後も、資金の問題、認可取得の問題などで、あれこれ時間も手間もかかりましたが、ようやくにして、翌年末にカンボジア政府から旅行代理店の正式な認可がおりたのです。ところが、ほんの数カ月で、コロナ渦に巻き込まれ、私は7カ月間日本滞在、昨年10月末にようやくシェムリアップに戻ってきたところでした。

私が戻ってきたところで、セイハーは解雇せざるを得ませんでした。心苦しいけれど、この先もまったく見通せないし、何より資金がありません。それで引っ越すときに、新しい仕事が見つかるまでは最低限の生活の面倒はみるからということで、現在は正真正銘の居候をしているのです。

セイハーはすでに半年以上前から、ジムのインストラクターをやっていました。もともとジム通いだけが唯一の趣味で、旅行社ができないのなら、好きなことを仕事にしたいと言っていたのです。ところがジムも閉鎖され、数人いた生徒がいなくなって、今やまったく収入のアテがなくなりました。ジムが再開され、人々にそういう気分が戻ってくるまでにはまだまだ時間がかかりそうですが、今や世界の人の多くが同じように生活の糧を失いオロオロしている最中ですから、私も腹をすえて、できる協力はしてやりたいと思っています。

しかしそれにしても、身長178cm、体重80kg、100kgのバーベルを持ち上げるというセイハーの、食べること食べること。私の3倍は食べます。しかも肉食。さすがに自分でも悪いと思ったのか、最近は誰かに借金をして、自分で食材を買いに行ってます。もちろん調理はまったく別、もともと二人とも引きこもり系なので、同じ屋根の下にいてもほとんど会話を交わすこともなく、用があれば、隣の部屋どうしでメッセンジャーを使っています。それが私たちにはちょうど良い距離のようです。

コロナが終息して彼の仕事が順調になり、結婚して子供ができるまで、おそらく私たちの‶腐れ縁″は続いてゆくのではないか?私もいくつになったら‶初孫″を抱くことできるのか?これもまた人生のささやかなかつ前向きの目標になるならば、いいんじゃない?と、繰り返し自らにいいきかせているところです。

*一昨年、みんなでドリアンを食べようと1個20ドル出して買いました。ところが日本から来たみなさんは敬遠気味で、セイハーが独り占めできてご満悦のところです。彼はごらんのように、イケメンで力持ち、しかもお婆ちゃん好きです。アンコールワット第3回廊の急峻な階段も、おんぶして上り下りできます。と、それを我が社のウリのひとつにしようと目論んでいたのですが、アテがはずれました。

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