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北朝鮮のDUNHILL

*突然ですが、北朝鮮ネタです。私は2003年から15年間、松本の私立高校の嘱託職員として、年に一度の生徒たちの研修旅行の企画に関わって来ました。当時すでに中国に住んでいたので、行き先はほとんどが中国東北地方、旧‶満州″が多かったのですが、私が最もこだわっていたのは、生徒たちに‶国境″を見てもらいたいというもので、旅の全体テーマは、「きみは国境を見たことがあるか?」。

日本から来ると、最も行きやすいのは「中朝国境」(中国では北朝鮮といういい方はなく、朝鮮)で、交通の便からいうと「丹東」です。もちろん私は黄土高原から向かい、日本からよりはるかに時間がかかりました。

当時は、東側に隣接する東港市に日本語学校があったので、そこでの交流も含めて丹東にはほんとうに何度も何度も行きました。

ここ最近の日本では、何かと‶話題の多い″北朝鮮ですが、では実際に北朝鮮の国土を見た人、ましてや北朝鮮人と口をきいたことがある人はどれくらいいるのでしょうか?現在の北朝鮮が様々な問題を抱えた国家であることは間違いないと思いますが、それにしても、日本に暮らす人々にとっては、あまりに政治のフィルターを通した情報しか伝えられていないのが実情です。

日本在住の中国人作家毛丹青が「人は人を知り、人は人を想うような世界」でありたいと述べていますが、まったく同感です。

2007年の過去ログに‶北朝鮮ネタ″を見つけたのでご紹介します。あれから15年。中国も北朝鮮も、そして日本も、大きく変わったなぁとしみじみ思う今日この頃です。

西塔シーター
瀋陽に到着しました。今年もまた生徒たち13人がやって来るので、早めに瀋陽入りしています。今回もこれまでとほぼ同じコースなのですが、中国では、ましてや中国と北朝鮮との国境界隈では、何がどう激変しているかまったくわからないので、下見と準備です。

私は今、町の西部にある「西塔」という地区の民宿に泊まっています。この西塔がとても面白いところですっかり気に入ってしまい、旅のコースに組み入れました。長辺1キロにも満たない地区に、商店・飲食店・カラオケ・サウナ・美容院等々が密集しているのですが、そのほとんどが朝鮮族中国人ないしは韓国人が経営していて、北朝鮮国営レストランも何軒かあります。看板もほとんどがハングルです。もちろんキムチやキンパッブ、マッコルリなどを売っている店もあちこちにあって、中国にいるという気がしません。

で、その西塔地区にひときわ高く聳え立つ3棟のマンションがあり、持ち主の80%が朝鮮族中国人ないしは韓国人で、彼らはその部屋を民宿として提供しているのです。お金がある人は部屋を2つも3つも買って、内装を整えて1泊食事付きひとり100元ほどで営業しているのです。それが合法なのか非法なのかは知りませんが、とにかく看板などいっさいないまったくのマンションの一室なので、もちろん誰かの紹介がないと泊まることはできません。私は去年、東北師範大学の朝鮮族の学生に紹介してもらいました。

今はその中の高相基という人の部屋にいるのですが、お客さんは私以外に6人、すべてが韓国人で、部屋の中では中国語は聞こえずハングルのみで会話が続けられています。こういうところにやってくるのは、主に商売をしている韓国人で、商品の買い付けや商談のためにやってくるようです。また、知り合いを訪ねて来るとか、とにかく“観光客”はいないようで、たまには北朝鮮からもお客さんがやってくるそうです。

50歳くらいに見える老板の高相基は、以前日本に出稼ぎ経験があり、カタコトの日本語が話せるのですが、ここに日本人が泊まるのは初めてだそうです。もちろん生徒たちにもここで1泊してもらう予定です。中国に来て、韓国人と身振り手振りで会話し、でももしかしたら彼らは日本語を解するかもしれないし、中国人とその上に北朝鮮人とロシア人でもやってきて、リビングで一緒に朝ご飯を食べることにでもなったら、ほんとうにまったく“国境”なんかどこにもないんじゃないかと、混乱に混乱を重ねるすばらしい“研修旅行”の始まりとなることでしょう。         (2007‐09‐16)

複合汚染
国境の町丹東に来ています。去年も同じ時期に来たのですが、生徒たちが帰った直後に例の核開発問題が起こり、私たちが行った“一歩跨いっぽまたぎ”に鉄条網が張られたというニュースはテレビでもやっていたようです。

“一歩跨”というのは、鴨緑江沿いの道をバスで30分ほど遡上したところにあり、ここは鴨緑江の細い支流が中朝国境となっています。水の少ない時期に行くと、川底の飛び石をトントンと伝って、ほんとうに一歩で跨ぐことができるほど、北朝鮮(鴨緑江の中州が北朝鮮の国土)は眼の前なのです。川幅は10mもないくらいで、川の中央が国境線ですから、簡単に越境できることになります。もっとも、川向うのブッシュの中で北朝鮮兵士が監視しているそうですから、‶上陸″は控えた方がいいでしょう。

はたして今現在はどうなっているのか?“一歩跨”の真ん前に家があり、時々やってくる観光客目当てに売店を出している楊さんにメールしてみたら、去年と変わりないという返事が返ってきました。でもほんとうに“変わりない”のか?それを自分たちの目で確かめに行くことが、私たちの“研修旅行”です。

それにしても町は1年前と比べてもずっと開発が進み、高速道が延び、新しいビルが建ち、商店の数も増えていました。

私が到着したときはすでに夕暮れでしたが、去年泊まった招待所に宿をとり、食事をしてから鴨緑江に出てみました。丹東駅から歩いて15分ほどで川べりの鴨緑江公園に出ます。右手に戦時中に日本が造った鴨緑江大橋を望み、対岸は北朝鮮の新義州で、観光船がずらりと舳先を並べ、土産物屋が集まる国境観光のメッカです。

私はここにはすでに6回ほど来ていて、勝手知ったる光景だったはずですが、川べりまで来てあっと驚きました。鴨緑江に水がないのです。いえ、ものすごく水位が下がっていて、これまで一度も見たことのない、ゴロゴロ石の“川原”が出現していたのです。いったいぜんたいこれはどうしたこと?

やがて陽もすっかり落ち、観光客の姿もひとりふたりと消えはじめた頃、私は闇の彼方に奇妙なものを発見しました。ヘッドランプを付け、大きなタモを持って、何かを掬っている男がひとり川上の方からやって来たのです。ゴミを拾っている清掃局の人とは見えず、魚を捕っている感じでもありません。夜目にもわりあいきちんとした身なりで、ときにウロウロと移動し、ときには一ヵ所に立ち止まってじっと川面を見つめているのです。で、私はこういう人を見ると、いったい何をしているのか?気になって気になって、どうしても聞いてみたくなるタチです。

私は鴨緑江大橋のイルミネーションに照らし出された川原の石を注意深く辿ってその人にじりじりと近づいて行きました。で、あと一歩で「おじさん、何してるの?」と声をかけようと思ったその瞬間、何の因果か、いきなりズボッ!とヘドロに突っ込んでしまったのです。「あーっ!」と叫び声をあげた私におじさんは「何をしてるんだっ?」と声を荒げ、「こっちだ、こっちっ!」と助け舟を出してくれたのです。

当初の目的はすっかり忘れ、ほうほうのていでヘドロの海から脱出し、虹色に染まった噴水で悪臭に染まった靴と足を洗って、靴下は捨てました。マズイことに、今ちょうど足指に切り傷があって、そこからバイキンでも入ったらいやだなぁと、焼酎を買って帰ってたっぷり振りかけました。なにしろ世界の冠を争う汚染大国、中国と北朝鮮の複合汚染ヘドロですから、なんともなければいいが、やっぱり酒屋より薬屋に行った方がよかったかなぁと、今も気になっています。

とまぁ、こんなしょうもない私事はどうでもいいのですが、この日私を一番驚かせたのはそんなことではありません。去年まで鴨緑江大橋の向こう側は、永遠に明けそうもない漆黒の闇だったのですが、今回、橋の彼方の新義州に、ぽつぽつと、赤緑黄色の小さな明かりが灯っているのを発見したのです。

*酒屋のおじさんに聞いて分かったことですが、なんのことはない、水が少なかったのは干潮だったせいです。海から遠く離れた地で暮らし始めてすでに長く、そういった感覚も薄れてきたようです。    (2007‐09‐18)

越境者
私が一番初めに中朝国境の町を訪れたのは北京に住んでいた頃で、吉林省図們トゥーメンという豆満江に面する町です。朴君という東北師範大学の学生の実家があるところで、日本から来た友人2人と長白山に登る予定でした。

街中にある豆満江に架かる橋(日本軍が造った?)の真ん中までは行くことができ、そこには‶国境線″が引いてありましたが、2、3歩越境したところで、北朝鮮軍の国境警備兵がじっとこちらを見ているのに気づいて引き返しました。

その後に朝鮮族の民俗資料館に行ったのですが、入り口の近くで、うら寂れた格好の2人の少年に出会いました。いえ、遠目には中学生くらいに見えたのですが、実際には、北朝鮮から越境してきた軍隊経験すらある立派な大人だったのです。栄養状態が悪いので、痛々しいほどに小さな身体つきをしていました。

私たちが話している(朝鮮族の朴君は朝鮮語が話せる)のを見た、資料館の館長らしき人が出てきて、中に入れと私たちを促しました。越境者2人が人目につかないようかばうためです。彼らはいわゆる‶脱北者″ではなく、時々越境してきて、何がしかのお金や物を乞うてまた国に戻って行くのです。着ているものを全部脱ぎ、頭の上にくくって、豆満江を泳いでやって来ます。ましてや厳冬期は完全結氷することでしょう。警備兵に少し賄賂を渡せば簡単に越えられるといっていました。

私たちは一緒に館内の展示物を見て廻りました。小さな資料館でもあり、朝鮮の古民具や衣装など、どこかで見たことがあるようなものばかりでしたが、その一角に、祝い事の席にずらりと並んだごちそうの模型が展示されているコーナーがありました。それまで楽しそうに、むしろはしゃいでいたくらいの2人の青年は、その前からいつまでも動かなかったのです。

帰りがけに館長さんから私たち日本人に、できればいくらかの支援をしてもらえないだろうかという依頼があったと朴君から聞きました。それでなくても私たちはそうするつもりで、いくらかの中国元を渡しました。彼らにとっては大金だったと思います。

このお金を何に使うの?と聞いた私に、青年のひとりは、豆満江で魚を釣って、行商をしたいと嬉しそうに言っていたのを今もよく覚えています。

その後にも、呼べば声が届くようなフェンスの向こう側、荒れ果てた畑で黙々と根っこを掘っている女性の姿も見ました。片やこちら側の世界でちょっとしたレストランに入れば、中国の伝統に則って(料理は残すほど注文するのが客人への礼儀)、無残に食べ残された料理が眼を覆うばかりの惨状を呈するというのに、世界はどうしてこんなにも不公平なのか、これほど赤裸に提示してくれる国境も他にはないかも知れません。

あの時からすでに3年が経ちました。今回、私たち一行は鴨緑江の観光船に乗って、1時間ほど中朝国境を遡ったのですが、ちょうど収穫の季節だったこともあるのでしょうか、みな生き生きと労働に勤しみ、男たちが投網をかけ、子供たちが川で遊び、道行く人たちも船の上から手を振る私たちにニコニコと手を振り返してくるのです。中には投げキッスを返してくるおじさんもいたほどでした。

北朝鮮の社会で何かが変化している、それはきっと人々の生活に希望を与える何かではないだろうか?今回見た北朝鮮側の‶明るさ″は、実は私の予想を大きく裏切るものでした。

図們で会ったあの青年たちは、無事に魚屋を開業できただろうか?草の根を掘っていたおばちゃん達も、今は白いご飯を食べているのだろうか?

もちろん私たちが見たのは、ごくごく一部分であり、観光船から見える部分には、政府の意図が反映しているという話も聞きます。それでも、懸命に泳いで私たちの船を追いかける子供たちに、健康的な少年の闊達な表情を見ることもでき、北朝鮮の民衆たちに、近い将来、まずは‶飢え″から解放される、当たり前の日々がやって来るだろうことを信じたいと思います。             (2007‐09‐26)       

北朝鮮のDUNHILL
生徒たちがやってくる前の話ですが、私が丹東のビジネスホテルのロビーで一服していると、同じテーブルに4人の男たちがやってきて中国語と朝鮮語で話が始まりました。ふと私の隣に座っている男性の手元を見ると、「朝鮮民主主義人民共和国」のパスポート。よく見ると胸に金日成のバッジ。

私は頃あいを見計らって、中国語をしゃべっているおじさんに話しかけてみました。すると、ふたりは中国人で、今さっき平壌からふたりのお客さんを連れて丹東に着いたところだというのです。当然商売がらみです。私が日本人だといってもふたりの朝鮮人は特に驚いた様子もなく、私が勧めるセブンスター(普段は吸わないが、こういう時のために常に持ち歩いている)をおいしそうに吸っていました。そしてその中国人のおじさんは連絡をくれればいつでも平壌に連れて行くからと、名刺までくれたのです。

別れ際に私が残りのセブンスターを差し出すと、その朝鮮人のおじさんはニコニコ顔で自分が吸っていたタバコを代わりにくれました。その紅い箱には金色の文字で「DUNHILL」と銘が打たれていたのです。 (2007‐09‐28)

*タイトルバックの写真は、船の上から見た北朝鮮の民家。昭和世代の私たちにとっては、とてもなつかしい光景でした。望遠でボケているわけではなく、ファイルサイズが小さいからで、ほんとうに呼べば聞こえる距離を通ります。正確に言えば、すでに北朝鮮の領土内を通っているわけで、当時は中朝関係が良好であったということを意味するのでしょう。今現在、観光船の航路がどのようになっているのか、気になるところです。

もうひとつ。私たちが乗った観光船の舳先には、中華人民共和国の国旗が掲げられています。北朝鮮の人々も、まさか私たちが日本の高校生たちだとは思いもよりません。果たして彼らは、現在の日本人に対してどのような感情を持っているのか?少なくとも私が実際に(ほんの一言二言でも)言葉を交わした数人の人たちから‶悪感情″を感じたことはないのですが、大いに気になるところです。


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