見出し画像

黄土地上来了日本人(黄色い大地に日本人がやって来た)

先回私は、いろいろ考え事などもあり……と書きました。結果的に Covid は軽症だったとはいえ、はじめの頃はまったく先がわからなかったわけで、今はやりの言葉で言うならば、‶終活″についてあれこれ考えていたのです。

私は若い頃から、‶畳の上では死ねない″覚悟は十分にしていたつもりですが、けっきょくこの歳まで、不安定、不摂生極まりない人生を送りながらも、入院を必要とする大病や大事故とは無縁に暮らしてきました。しかし今回、外出を控えて、ベッドの上でゴロゴロしている時間が多かったせいで、いよいよもって、「いつぽっくり逝くかわからないなぁ」と、しみじみ思わされたのです。しかし実は私には、死ぬまでにやらなければならない大仕事がひとつ残っているのです。

私は2005年6月から、中国山西省の寒村で、12年間暮らしてきました。いったい何をしていたのかというと、その地に暮らす老人たちから、彼らの過去の記憶を聞き取っていたのです。これはまったく私個人のフィールドワークでした。

私の老人たちへの質問はただひとつ、「ここに日本人がやって来た頃の暮らしの中で、覚えていることは何でも自由に話してください」というものでしたが、彼らが語ることのほとんどは、日本軍による‶三光作戦″の実態でした。

そして2010年、300人ほどから聞き取った記録をまとめて、どこかの出版社から出版するつもりでいました。ところがちょうどその頃、フトしたきっかけで、東京大学の安冨歩教授と知り合い、彼から「ウチの研究所から出さないか?」と勧められたのです。

‶東大″などという、およそ私には似つかわしくない所から出す気はなかったのでお断りしようと思ったのですが、「ウチから出せば、交流のある世界の大学の図書館や研究所に寄贈されるから、記録として100年は残りますよ」といわれて、急に気が変わったのです。フツーに出版しても、それほど多くの人の目につくわけではないので、資料集として世界の図書館に永く保存されるならば、その方が、取材された老人たちも喜んでくれるだろうと考えました。

結局、2011年と16年の2回に分けて500部ずつ刷り、東京大学東洋文化研究所附属東洋学研究情報センターから、『黄土地上来了日本人』(黄色い大地に日本人がやって来た)というタイトルの資料集として刊行されました。

資料集は、老人たちから聞き取った録音テープを、現地の特殊な方言から標準中国語に翻訳したものですが、あえて日本語に翻訳することなく、中国語で刊行しました。中国語の方がはるかにワールドワイドだからです。

で、この中国語の原本を日本語に翻訳して記録に残す、ということが、私の人生最後の大仕事として残っていたわけです。当初は、カンボジアでなんとか生計のメドをたてて、それからその仕事に取り組もうと考えていて、データもUSBに入れて持って来ていました。

ところが思いもかけない Covid で、起業してわずか数カ月で旅行社の仕事はなくなり、今だ先も見えないまま途方に暮れていたところに、私自身が感染してしまったのです。

そこで最初に戻るのですが、私も来月には74歳になります。今のところボケも始っていないようだし、当座の生活問題もともかく、いつ何時どうなるかわからないので、この翻訳を先に急ごうと考え出したのです。

正式な出版となると、すべてを翻訳し終えてからという作業が必要で、それにはまた膨大な時間が必要になります。この note 上であるならば、ひとつずつやってゆけばよいわけで、自分の能力体力から考えて、この方法を選ぼうと考えました。もちろん、扱っているテーマが note にはあまりふさわしくないものだということはよく承知しています。ここに来てくださる方も、これまでよりも少なくなるかも知れません。しかし、場合によっては、私に残されている時間はあまり多くないので、とにかく文字にして記録に残す確実な方法を選択することとしました。

中国語に「天高皇帝遠」という言葉がありますが、中央政府のコントロールから遠く離れた僻地、というような意味です。私が暮らしていた寒村は、まさにそのような地であり、農民たちは古来より、旱魃や飢餓や戦乱に苦しめられてきましたが、それでも逞しくしたたかに、かつ自由に生きていました。当初は2、3年、長くても5年以内と考えていた滞在が12年にも及んでしまったのは、そういう農民たちの生きざまに魅かれたからに他なりません。

老人たちの‶証言″は、初めから編纂を目的としていたものではなく、あくまで農民たちと生活を共にする中で、あたかも子や孫が‶昔話″を聞くような姿勢で聞き集めたものであり、「歴史学」のジャンルではなく、「民俗学」に属するものだと考えています。

なお、これらの‶証言″ばかりを並べても読みづらいので、滞在中に書き続けていた私のブログをご紹介しつつ、その間に‶証言″を挟んでゆくこととします。また、証言者の写真など、データが重いので手元にはありませんが、いずれ帰国した折に加えてゆくこととします。そして、私自身の糊口の問題もあり、本来の目的と矛盾して心苦しいのですが、証言の部分に関しては有料配信とさせていただきますので、よろしくご理解ください。また、シェアしていただければ幸いです。

以下は、『黄土地上来了日本人』のまえがきの部分です。

画像1

まえがき
2003年10月、陝西省延安。降りやまぬ秋の長雨をついて、北京行き夜行寝台バスが数時間遅れて出発した。夏から秋の黄土高原では、毎年のように激しい雨が降り続く。乾ききった黄色い大地に降りしきる暴雨は瞬く間に濁流を成して山を削り、谷を穿ち、猛獣の爪痕のような特異な高原の地形を造成してゆく。そしてそれはまた、農民たちが生きてゆくための貴重な生活水ともなってきた。

私が乗ったバスは先々で小さなハプニングに遭遇しながら、曲がりくねった高原の坂道を彷徨し、ついには崩落した大量の土砂に行く手を阻まれて動けなくなった。狭い車内に半日間閉じ込められた末、乗客たちは救助隊を待って、深夜懐中電灯で足元を探りながら泥の海を脱出した。

その夜は民家に分宿し、翌朝、筏に乗って山西省側に黄河を渡り、私は身も心もくたくたに疲れ果ててようやく黄河の畔にひらけたとある村にたどり着いたのである。かつての繁栄を偲ばせるには十分な石造建築の群れとすり減った石畳の街道が黄河に沿って開けてはいたものの、ものみなすべてが眠ったように静かな村だった。

思えばあの日、村内を散策する私にある老婦人が「どこから来たの?」と問いかけ、「日本人です」と答えたところから、私の長い旅は始まったといえるだろう。彼女の唇から迸る激しい言葉を私の貧しい中国語能力はほとんど捉えることができなかったが、「昔、村に日本人がたくさんやって来た」こと。「日本人が多くの村人を殺した」こと。「その後初めて日本人を見た」ことの3点だけは、じきに理解することができた。まったく偶然足を踏み入れたその村は、‶三光作戦″の村だったのである。

60年ぶりに立ち現れた日本人の私にとって、そこが針の筵でなかったはずはない。一時も早く立ち去りたいという気持ちと、ここで逃げてはならないという思いが錯綜したが、老婦人の‶昔話″にじっと耳を傾ける幼子たちの表情のあどけなさが、むしろ私を現実に引き戻し、私はいつかこの村を再訪しなければと心に誓った。この子たちの心に日本人は‶鬼″の姿のままに棲みつき、それはやがて彼らの子どもたちにもまた語り継がれてゆくことだろう。

そのチャンスは思いの外早く訪れ、翌年、私は数人の大学生たちと共にこの地を訪れ、通訳を伴って4人の老人たちから当時の話を聞き取った。ある人は訥々と、またある人は雄弁に過去を語り、それは私たち日本人にとってはいずれもきつく耳を塞ぎたいことばかりであったが、最後に、日本人に母親を殺され、家を焼かれたという盲目の老人に「60年ぶりに訪れた日本人をどう思うか?」と学生が問うた時、老人は、「遠いところをほんとうによく来てくれた」と私たちをねぎらい、「日本に帰ったら、この村であったことをみなに伝えて欲しい」と応えたのである。

日本人への怨嗟、あるいは金銭的補償の要求を予期して身構えていた私は、この言葉に強く心を動かされた。いまなお国家級貧困地区に指定されているこの貧しい村で、日本軍による暴虐の傷痕を、こんなにも激しく記憶に留めている彼らが、日本人の私たちに求めているものはいったい何か?それを知りたいと強く思ったのである。

翌2005年6月、中国語を学ぶために4年間暮らした北京を引き払い、私は黄河を見下ろす磧口李家山村に単身転居した。

それから5年半、私は100を越える村々を、バスとバイクと徒歩で巡り、300人の老人たちから当時の記憶を聞き取ることができた。当初は私に言葉をかける人も少なく、ひそひそと‶後ろ指″をさされることもたびたびではあったが、予測していた‶準備期間″は思いの外短かった。

やがて村人の方から声がかかるようになり、どこそこの村に何歳の老人がいるという情報が届けられるようになった。ひとりの取材を終えると、その人がまた新しい人を紹介してくれ、わざわざそこまで伴ってくれるようにもなった。崩れたヤオトンの修理や重労働の水汲みも、村の若い衆が気軽に手伝ってくれ、やがては婚礼や葬儀の席にも声がかかるようになった。

しかし、そんなふうに徐々に村人たちの暮らしに溶け込んでゆく過程で、私の中で大きく変化していったものがあった。当初、戦争被害者たちの記憶を聞き取ることは、やはり日本人のひとりとして、戦後責任問題に大きくかかわるものであった。しかし、農民たちと同じ屋根の下、同じ井戸の水を汲みながら時間を共有するうちに、自分が日本人であるということは、以前ほど重要な意味を持たなくなってきたのである。

私が出会った老人たちのほとんどは読み書きができない。日本人であれ中国人であれ、いま誰かが記録に残さない限り、彼ら‶名も無き″農民たちの記憶は、いずれ‶なかったこと″と同等の価値しか持ち得ないだろう。実際に、ある日突然、彼らの無数の記憶たちが絶対の闇の中に折りたたまれてゆくその時を、私は自分自身の眼で何度も見てきた。

そしてまた、この2年半私が暮らしてきた近隣の村々では、いま集団移転の話が持ち上がってきている。この界隈には小規模な炭鉱が多く、近年のめざましい発展の陰で、地下はすでに危険なアリの巣状態になっていると聞く。おそらくは、この先2年3年の間に村人は故郷を、農地を追われ、都市近郊の高層住宅型‶新しい農村″へと移動を余儀なくされることであろう。

旱魃に苦しめられ、飢饉や疫病に喘ぎ、日本軍の侵略に耐えながらも、数百年の長きに渡って連綿として共同体の歴史を刻み続けてきた、広大な高原に散在する‶名も無き″村々は、瞬く間に廃墟と化し、彼らの過酷な労働が刻印された段々畑もやがては本来の自然に戻ってゆくだろう。人にも村にも、残された時間はあまりに少ないのだ。

当初2、3年のつもりで移り住んだこの地で、すでに5度の星霜が過ぎ去り、私は多くの老人たちの最期を見送った。平均寿命のきわめて短いこの地で、ひとつの時代の、かろうじて残されていた最後の記憶たちに出会え、記録することができた幸運を、感謝せずにはいられない。

最後に、本書の刊行にあたって様々なご尽力をいただいた………(謝辞略)。

本書を、今は黄色い大地の墓標のない墓に眠る、名も無き農民たちにささげる。

2011年2月3日
中国山西省臨県招賢鎮賀家湾村   大野のり子

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?