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Oral History 陳家垣

陳家垣(チェンジャーユエン)
李家山から尾根続きの隣の山が「陳家垣」という村です。ここは磧口ではもっとも高い位置にある村なので、対岸の陝西省の様子を偵察するために、日本軍が真っ先にやってきたところだそうです。

私が常々頼りにしている、河南坪小学校の李サンア先生の実家がここにあるので訪ねてみました。彼女のお母さんがいまでも日中戦争の時の話をよくしていると聞いたからです。

李家山からは尾根を歩いて20分くらいで行けます。人口は400人くらいなのですが、どうやら10~20軒ほどのヤオトンがかたまった小集落があちこちにぱらぱらと散在している村のようです。

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まず最初に、日本軍が砲台を造ったという場所に行ってみましたが、それらしき痕跡は何も残っておらず、平ぺったい台地になっていましたが、確かにそこからは黄河をはさんで陝西省の山並みが間近に見えました。陝西側には八路軍が陣取っていたわけで、この高台から砲撃をしたのでしょうが、結局日本軍は黄河を越えられませんでした。この“黄河を越えられなかった”ということを村人たちはたびたび口にします。自分たちが守ったという誇りがあるからでしょう。

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李先生の家で、今年78歳になる陳鉄林老人の話を聞き始めたのですが、日本人が来たという情報がすぐに伝わって、以前村長をしていたという陳文明老人と、陳在明老人のふたりがやってきました。他にも若い人たちが3人ほどと、子供が数人、興味深げに私たちのやりとりをじっと見ていました。

この村で日本兵に直接殺されたのは2人だそうですが、ひとりの老人の父親の先妻は、日本兵に連れ去られて帰ってきてからは床に就くことが多くなり、やがて18歳で亡くなったそうです。

3人の話は李家山の老人たちの話と共通しています。とにかく日本兵が来ることがわかればすぐに逃げ隠れたので、実際に自分の目で残虐な行為を見たわけではない、というのです。つまり、この村では戦闘が行われたわけではないので、これが現実だったと思います。こういった村々では、実際に残虐な行為の対象となった人というのは、つまり殺されてしまったのだといえるでしょう。                      (2005-10-29)

廃校
村の入り口に「陳家垣小学校」という看板がかかったヤオトンがあったのですが、扉には錠前がかかっていました。近くにいた人に聞いてみると、子供がいなくなったので閉校になったというのです。それも今学期からで、前の学期には10数人の児童がいたそうです。

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実は李家山小学校の状況はもっと顕著で、私が最初に来た今年の3月には、たしかに50人近くの児童がいました。それが半年後の9月の新年度には1/3以下に激減してしまったのです。なぜそんなに急に児童が減ってしまったかというと、家族ぐるみで下の磧口、あるいはもう少し遠くの町に引越してしまったのです。

こちらの小学校の時間割は日本とは大きく違っています。例えば河南坪小学校の時間割は;
06:30~08:30 自習
08:30~09:30 数学
09:30~10:30 自宅に帰って朝食
10:30~11:30 自習(朝の数学の時間に出された問題を解く)
11:30~12:00 休憩(自宅に帰って昼食)
13:00~14:00 国語
14:00~15:00 休憩
15:00~17:00 理科・社会・作文・音楽など

つまり、登校して後に、食事のために家に帰るわけです。今の時期は一般家庭では1日2回の食事ですが、夏場は3回になり、つまり2回家に戻らなければなりません。学校から近い子供はともかく、遠い子は「弁当」という習慣がないので、山道を駆け足で行き来することになります。この不便さにやりきれなくなったというのがひとつの原因です。
  

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そして、親の教育熱がどんどん高くなっているということがあげられます。こういった“辺地”の小学校の教員は、師範学校を出た「正式老師」ではなく、「代課老師」といって、口の悪いロンフォアにいわせれば、「読み書きさえできれば中学生だってできる」レベルの低い教員だそうで、親は自分の子供に“標準語でもっといい教育”を受けさせるために、家族そろって山を下り、父親は出稼ぎに行き、母親と老人が残ってときどき山に戻って農地のめんどうを見る、といった図式が定着してきているのです。 (2005-11-01)

陳鉄林老人(78歳・女)の記憶 陳家垣                  私が12歳のときに日本人はやって来て侵犯した。あのとき母は私に、母のかわりに緑豆の袋を担がせた。私はまだ幼くて担ぎたくなかったのでつらくて泣いた。母は日本人が来て、食糧を全部自分たちの軍馬に食べさせるのを恐れた。私たちが家に帰っても食べるものがなくなるので私に背負わせた。私は当時まだ12歳で大声で泣いた。

家に帰ってから穴をひとつ掘り、中に甕を入れ、そこへ食糧を入れた。それからは背負わなくてもよくなった。夜も布団をきっちり縛っておいた。村のだれかが歩哨に立って、呼子を吹いた。この音を聞くと、日本人が近くの村まで来たという意味で、人々はすぐさま行動を起こし、布団を背負って出発した。

大砲の音が聞こえると、日本人が小園則まで来たという意味で、すべての村人が行動を開始した。村人はみな洞窟に飛び込んだ。柳林のひとりが金皮隊に参加していた。彼らは当地の言葉を話す。「おかあさん、日本人は行ってしまったよ。おばさん、家に帰りなよ。日本人はいなくなった」と声をかけ、人々が騙されて出てゆくと捉まって殴られ、娘を出せと要求された。女性たちをみな連れ去った。

ある人が石の割れ目の中に隠れていて発見され、出てこいといわれた。しかし、彼は頑として出なかったので、ガソリンをかけられ、生きたまま焼かれた。これは自分で見たことだ。焼かれるところを見た。その事件は、近くの谷底で起こったことだ。死体はまるこげのだんごになっていた。

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