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北京まではともかく、その先がいかにタイヘンかというお話。

北京です。
昨夜10時過ぎ、北京に到着しました。もぉ~~う、暖かいのです。東京と変わりません。私は北京でふた冬過ごした経験がありますが、こんなことはありませんでした。異常気象です。しこたま着込んで荷物を減らすという思惑ははずれて、大荷物抱えて難儀しています。

夜の北京駅。手前に写っている影が、切符購入の長い列。

定宿にしている北京YHは、北京駅のまん前という抜群のロケーションにあります。今日は昼前にようやく起き上がって外に出たのですが、いきなりバシッ!と横っ面をたたかれて我に返りました。忘れていたわけではないのですが、中国では春節休暇に入りかけていて、何億という“人民大移動”がすでに始まっていたのです。今年の春節は18日ですが、どうやら年々前倒しが早くなっているようで、北京駅界隈は、人人人人人人人人人‥‥の渦で、大きな荷物抱えた数百数千人の人びとが、バスや地下鉄を降り、いっせいに駅構内に向かって怒涛の如くなだれ込んでいくのです。

それでも、この人たちはすでに切符を持っているわけですが、いまだ購入していない人びとの列が、ヤマタノオロチどころかうねうねうねうねくねくねぞろぞろ、どこがどうなっているのか?普段は決して並ばない中国人が、“ふるさとに帰りたい”というただひとつの想いを共有して、絶望的に長い時間をけんかもせずにおとなしく並んでいるのです。この時期は駅前の広場に何十もの臨時窓口が開設されるのですが、その窓口に行き着くまではたして何日かかるのか?というくらいに途方もなく長い長い列なのです。

で、ここまで来て私は再びハタと我に返ったのです。はたして明日、無事に太原行きのバスに乗れるのだろうか?こちらではバスの切符は普通は前売りしないので(山西界隈では、中長距離でもみな個人経営だから)、ターミナルまで行って、窓口で並んで当日切符を購入するしかないのです。しかし、今日の北京駅のような長蛇だったら‥‥。しかもひとりで大きな荷物を抱えてというハンディがあるので、これが大ごとで、何かと制限付きになります。何しろ荷物から一時も目を離せませんから。もちろんトイレにも行けません。起きてから水分はいっさい摂りません。

で、今日は早めに寝て、明日は早めに麗澤橋のバスターミナルに向かいます。とにかくどこに行くにも渋滞がひどいのです。車の爆発的な増加に道路行政の方がてんで追いついていないのです。これでは来年のオリンピックはいったいどうなるのでしょう?いえ、明日の私はいったいどうなるのでしょう?                        (2007‐02‐10)

太原です。
幸いなことに、無事太原まで来ました。おそらくは、明日、樊家山に戻ることができるでしょう。まったくもってヤレヤレです。

くどいですが、異常気象です。バスの中でも冬物では暑いくらいで、クーラーをつけてくれといっていたお客さんもいたほどです。道行く人も、冬のコートを着ている人などいなくて、ほとんど春の装いです。今泊まっているホテルの部屋も暖房なしで快適です。いったいぜんたい地球はどうなっているのでしょう?

ところで、きのう北京でこんなことがありました。通りすがりの若い男性に道を聞いたのですが、彼もちょうどそこへ行くところだったので、5、6分の間歩きながら話をしました。別れ際に彼は、「日本人だなんて絶対に言ったらダメだよ」というのです。「なぜ?」と、思わず聞いてしまいましたが、「僕はモンゴル族だから日本人は好きだけど、漢族はね‥‥」というのです。その先はあいまいに笑って行ってしまいましたが、なんだか一昨年の“反日騒ぎ”の頃を思い出してしまいました。

そして先ほどのことです。夕ご飯を食べに入ったレストランで、注文をとりに来た少女が、私が日本人だとわかると(先の青年の忠告にもかかわらず、私はどこに行っても自分は日本人だといいます)、とたんにぱっと顔が輝いて、「私は日本が大好きだ」というのです。「なぜ?」と聞くと、日本のアニメが好きで、特に名探偵コナンの大ファンなんだそうです。そして、「生まれて初めて日本人と口をきいた」と、まるで有名芸能人とでも出会ったような喜びようなのです。そして彼女は漢族だと答えました(ちなみに、中国人の90%が漢族)。

おとといの夕方まで日本にいたわけですが、そこでは自分が“日本人”であるということを意識することは無きに等しいくらいです。ところが3時間半ほど飛行機に乗って国境を越えると、突然“日本人”にならざるを得ないのです。“国境”とは、なんと摩訶不思議な境界線だろうかと思います。で、その摩訶不思議が日常的に蔓延している空間に戻ってきて、私は今、なんだかとても落ち着いた気分になっているのです。

ところで、中国人と韓国人の日本アニメ好きに関しては、ここでもたびたび書いていますが、私はぜひぜひ提案したいことがあります。日中友好ナンタラ経済会議も重要でしょうが、「日本アニメフェスタ」というのを毎年大々的に開催してほしいものです。他のものに比べてお金もかかりません。“反日教育”には“アニメフェスタ”がもっとも強力な対抗馬だと思うのですが、みなさんはどう思われますか?                (2007-02-12)

「かあちゃん、太原に着いた。明日帰るから」と、ほんとうに嬉しそうに電話していた若者。おそらくは、中学を出てすぐに出稼ぎに出たのでしょう。電話の向こうのお母さんの笑顔も見えるようでした。

*以下は、翌3月のことです。
民工宿
実は先月の24日から2日まで1週間、上海→杭州→紹興と旅をしていました。ニューヨークで暮らす友人のMさんが遊びに来てくれたのでお伴です。ほぼ同じコースを一昨年の夏に廻ったことがあるのですが、1年半もたてば地図を作り直さなければならないのは、現代中国の常。あの魯迅の故郷へは高速道が通って上海から3時間、スタバとマックも誕生していました。でももう、そのことはいいです。

Mさんを上海空港に見送って、2日の夜8時頃、太原空港について予約しておいた宿に行くと、辺りは真っ暗。停電しているのです。フロントで聞くと10時くらいには来るだろうということで、しばらく街をぶらぶらすることにしました。この日は元宵節といって、公園や路上に灯の入った提灯をいくつもぶら下げて、春節最後の日を祝う行事があるのです。

2時間ほどして宿に戻っても状況は変わらず、疲れてもいることだし、酒でも飲んでさっさと寝てしまおうと思ったのですが、ここまできて、電気がないと暖房が動かないということがわかりました。外は氷点下の世界です。果たして来るのか来ないのかもはっきりせず、重い荷物をかついで夜中の11時過ぎに宿探しをしなければならないハメに陥ってしまいました。

しかし、太原駅界隈の宿を数軒廻ってもどこも満室で、私はやむなく声をかけてきた胡散臭そうな客引きのおっさんについて行きました。繁華な道路の裏通りの角を4回ほど回って、看板も何もないくずれかけたアパートの階段を3階まで登って案内された部屋には、確かにいつ崩壊するかもしれないようなベッドと、小さなテーブルがひとつ。

どう見ても1泊20元(1元≒14円)はしない部屋だけど、足元を見られて40元という線をゆずらず、それでも暖房が入っていたし、疲れ切っていた私は内から鍵がかかることだけ確認して、その部屋に泊まることにしました。さすがに野宿できる条件ではなかったからです。

私はこれまでに1泊5元というヤオトンにも泊まったことがあるけれど、これほど汚い、すえた臭いのする、すさんだ宿に泊まるのは初めてでした。階段のすみには数週間分かと思われるゴミが堆積し、踊り場から吹き上がる風は糞尿の臭いにまみれ、共同の洗面所すらなくて、水は唯一トイレにある蛇口から、何に使ったともわからないひび割れたバケツで汲まなければなりません。布団カバーは1年は洗ってないと思われるくらいに黒ずみ、シーツのしみはここに泊まった人々の汗と涙が永遠に乾くことのない苦行の証のようにも見えて、けっきょくくたくたに疲れていたのに、さまざまな妄想に取り付かれてなかなか眠ることができなかったのです。

こういう宿に泊まるのは、地方から出稼ぎに来た農民たちです。太原は、北京や南方の労働力を必要としている地域へのハブステーションともなっている町で、一旦はこの町に出て、ここから各地へと散っていくのです。このベッドにかつて眠ったことがある若者たち、イヤ時には40代50代のおっさんたちは、いったいどんな夢を描いて都会へ向かったのだろうか?

そして、都会でその夢はいくらかでもかなえられたのだろうか?騙され、裏切られ、使い捨てられて再びこのベッドに戻ってきた人たちは、故郷に持って帰るお金も錦もなくて、打ちひしがれてこの安宿に長逗留したのではないだろうか?などなど、いろんなストーリーを勝手に思い描きながら、私は長~い一夜を過ごしたのでした。

そして翌朝、離石へと向かったのですが、朝からの雨が途中で雪に変わり、離石に着くころにはすっかり冬景色に逆戻りしていました。出かけるときより帰ったときの方がずっと寒かったのです。

いつも泊まっている佳苑招待所に宿をとったのですが、樊家山に戻る前に洗濯がしたかったので、普段は泊まらない洗面所付きの部屋をとりました。で、洗濯物を水に浸して外出し、帰ってきてさぁかたづけようと蛇口をひねると、水が出ないのです。老板はじきに来るからというのですが、あてにはならず、案の定その夜は洗濯、シャワーはおろか、顔を洗うことすらできずに夜が明けました。

翌朝、つまり3月4日、もうとにかく樊家山に戻ろうと重い荷物を担いで雪解けにぬかるんだ道をターミナルに向かうと、今日は樊家山は大雪で、バスは来なかったという情報が入ってきたのです。穴があいたスニーカーでぐっしょり濡れた足で仕方なく町まで引き返し、今度は石州賓館という中級の宿をとりました。道路を挟んだすぐ向かい側なのですが、水も出たし、電気もありました。ただし、部屋の暖房が故障していてさっぱりきかないのですが、もうそれくらいは何でもありません。全部着込んで寝ればいいだけですから。

ということで、2日の午後に上海でMさんと別れ、彼女はその夜のうちに我が家でゆっくり風呂にでも入っているのでしょうが、中国国内にいる私はといえば、未だに樊家山にたどり着けず、果たしていつになったらバスが来るかもわからず、こうなればしばらくここに滞在して、中国の悪口をしこたま盛り込んだ駄エッセイ集でも編もうかと、本気でふてくされています。

*なぜ荷物が重かったかというと、上海と紹興の間にある安昌という古い町に行ったときに、110年前からやっているという醤油工場を見つけたのです。中庭の古い甕などを見ていたらおばちゃんが出てきて、工場の中を見せてくれました。そこには、110年前からずっと使っているという醤油を絞る木製の機械があって、今も昔のままに動いているというのです。もちろん、新しい機械で醸造している製品もありましたが、その昔ながらの機械で絞った醤油が、とてもいい香りがしておいしかったのです。それで、よせばいいのに、ふたりともついつい手が出てしまったのです。

レンコンの粉は、杭州の西湖の土産物屋に並んでいたもので、葛湯のようなものです。有名な西湖名産だし、歯のないじいちゃんばあちゃんたちも喜んでくれるだろうと、これまた大量に買い込んでしまいました。 
                           (2007-03-05)

狼が出る前に
5日の朝にバスの運転手に電話してみると、今朝は走った、離石まで来ているから大丈夫だというので、ほっとひと安心。ようやく樊家山に戻れることになりました。今日はからりと晴れて青空が広がっています。

バスが停まっている南関野菜市場へ早めに出かけました。2、3日は止まっているはずだからきっとお客さんはいっぱいでしょう。ちょうど最後の一席があいていて、ヤレヤレと腰を下ろすと、「どこへ行ってたの?」「日本から帰ってきたの?」「写真撮ってよ」と、さっそく注文が入ります。

そのうちに運転手のチーさんが、「今日は樊家山までは行かないよ」というのです。「え~っ?どういうこと?」「雪で途中までしか行けないんだ。そこから歩いてよ」。まったく‥‥、バスが行けないような雪道を、醤油2リットルとレンコン担いで登ってたら何時間かかるか、日が暮れて狼が出ます。

もう一晩離石泊まりかとあきらめかけたところで、チーさんが、「招賢行きのバスは出てると思うよ」というので、西客站まで行ってみると、ちょうどバスが出るところでした。今度こそほんとうにヤレヤレで、招賢まで行き、そこから醤油2リットルとレンコン担いで山道を登りました。

これがまぁたいへんな道だったのです。雪は相当降ったみたいで、日陰を見ると積雪15cmというところでしょうか。黄土高原の空にこんなに水分があったのかしらとびっくりするほどです。そしてその雪が今日の晴天で一気に溶け出し、陽が当たるところではもうドロドロになっているのです。このドロドロが、とても日本では想像できないしろもので、砂より細かいシルトという黄土が溶けて、ものすごい粘り気のぬかるみに変わるのです。水を含んだ粘土の山を上り下りするようなものですから、もう危険なことこの上なく、ちょっとでもバランスを崩したら全身泥ネズミ、場合によっては崖っぷちから一気にサヨウナラ~!。醤油とレンコンにパソコンとデジカメも入っているし、転ばないよう滑らないよう、冷や汗でぐっしょりになってようやく樊家山に戻りました。

家に戻ると誰もいなくて、メリーとクリスだけが、クックックッググーググーと迎えてくれました。寒いので部屋から出ず、そこらじゅう糞だらけ、それでも生き物が待っていてくれるというのは心なし嬉しいものです。幸いなことに電気はありました。出かけるときよりずっと寒くて、外気温-10℃、急いで火を焚きましたが、土のベッドがほんのり温まるまでにはまる2日かかります。
                           (2007-03-08)



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