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番外編:ふたたび香港 そして謎のベビー服

傷めた左ひざは、とくに‶治療″しているわけでもなく、もちろん日常生活上、普通に使っているのでなかなかその後の回復が見られません。いったんパソコンの前に座ると立ち上がるのが痛いので、ずっと座りっぱなしです。

で、私は昔のデータを5本のUSBに入れてこちらに持って来ているのですが、それをあれこれ開いていると、懐かしい光景が次々と浮かんできて、肝心のOral history の翻訳の手がついつい休みがちになってしまいます。

前回アップした、ラッキーハウスですが、翌年の記事も見つけました。その前後に広州のことも書いているのですが、それがなかなか面白いので、またまた予定を変更して、ここにアップします。今から15年前のことです。相変わらず、写真がないのがほんとうに残念ですが。

沙面(シャーメン)
今年もまた暑い夏がめぐってきました。ビザの延長です。もっと早くにやることはできるのですが、やはりなんのかのとぎりぎりになってしまって、けっきょく1年で一番暑い季節に、よりによってくそ暑い香港まで申請に行かねばなりません。北京でもとれるのですが、ここだと半年、香港だと1年のビザがとれます。時間と体力の問題をあれこれ計算した結果、奮発して北京から広州まで飛行機で飛び(往復2000元)、そこから香港に入ることにしました。香港直行便は高いのです。それと広州に住む、以前北京の大学で机を並べて中国語の勉強をしたユキちゃんに久しぶりに会いたかったからです。

彼女が住んでいる所は、沙面シャーメンという、明代から外国貿易の拠点として栄えていた珠江の中州で、後に欧米列強の租界となり、今も当時の面影を色濃く残している地域です。白天鵝(White Swan)賓館という、かつて“中国一”と折り紙を付けられたという豪華ホテルもあり、欧米系の熟年カップルの姿が多く目に付きました。町にはアメリカ領事館とポーランド領事館もあります。北部地方とは異なり、照葉樹の並木の緑がむせ返る濃密な空気の漂う木陰、イギリスが掘ったというチャネルでのんびり釣り糸を垂れる人の姿も見られました。

そしてしばらくぶらぶらしていて気が付いたことがあるのですが、なぜかベビー服を扱っている店がとても多いのです。それと、階段に必ずといっていいほど、小さなスロープが付いているのです。若い夫婦者が多い地域でもないし、コロニアルな雰囲気とはどうもしっくりこない景観なのです。どうしても気になるので、けっきょく店の人に聞いてみました。「この辺りって、どうしてこんなにベビー服ばかり売ってるの?」するともう、びっくり仰天の応えが返ってきたのです。            (2006‐08‐16)

*当時、私は沙面には1泊しただけ、しかもユキちゃんの家に泊めてもらったので、ベビー服以外何も気が付かなかったのですが、Wiki で調べたらなかなか興味深い地だったので、以下に貼り付けておきます。

やけくそで100万ドルの夜景でも
香港です。今年もラッキーハウスに到着しました。暑さが身体中にまとわりつき、数分歩くだけで、顎から汗がしたたり落ちます。いや、汗の海を泳いでいるようなもんです。黄土高原とは汗の感じが水と油ほどに違います。ほんとうに油のような汗がネバネバッー、ジトジトッー!と出てくるのです。

そしてどこへ行っても強烈なクーラーです。なんでこんなに利かせなければならないのか、不思議でたまらないのですが、商店などは、ほとんどすべてドアを開け放して冷気をがんがん垂れ流すのが南方流(広州もそうだった)です。例によって私は眩暈がしそうになるのですが、とにかくパスポートを握り締めて何が何でも16日までにと、今日、たどり着きました。広州からは途中2回の出入国手続き時間を含めて、ちょうど3時間でした。

で、1年ぶりにオーナーの対馬さんに会うと、彼はニコニコ笑いながら、「今ネ、1年ビザってなくなったのよ。ちょうど1ヶ月前かなぁ~」

えーーーっ!うっっそぉーーー!香港へはそれだけが目的でやって来たんだよぉ~、半年しか取れないんだったら何もここまで来なくても北京で取れるんだから。2000元+宿泊代+香港までのバス代+諸雑費+精神的・肉体的負担はいったい何のために支払ったのぉ~!そ、そんなぁ、ヒドいよぉ!!

「仕方ないねぇ。まぁ来ちゃったんだから‥‥」

で私は仕方なく、やけくそになって香港の街中を汗にまみれて歩き回りました。去年はずっと雨が降っていたので、どこにも行かなかったのですが、今年はあの有名な“100万ドルの夜景”も見に行って来ました。せめて飛行機代の2000元のうち、ちょっとくらい元を取り戻そうという気持ちが働いたのかもしれません。

午後8時からライトアップショーがあるというので、九龍地区の先端まで行って、そこから対岸の香港島の摩天楼を眺めるわけですが、特に感動したということはなかったです。きれいでしたが、あまりにあくまで人工の光と闇で。それと、日本人ばっかり‥‥

9時半頃に港から歩いてラッキーまで戻りましたが、途中にあの有名な“半島酒店”の前を通りました。英国王室ご用達の「ザ・ペニンシュラ」というやつです。正面玄関から見上げるそのあまりの威容に、後ずさりしながらカメラのシャッターを押し続けている間に私は車道に踏み出してしまい、あやうく香港名物の2階建てバスに轢かれるところでした。こっちの方がびっくりしました。                      (2006‐08‐17)

広州白雲飛機場
今広州のエアポートで北京行きのフライトを待っているところですが、実は香港では、ネットも携帯も繋がらなかったのです。全中国繋がるといわれて買ったネットカードですが、やっぱり香港は“特別区”のようです。

エアポートに来る前に、香港に行く前に街で声をかけてきた謝さんという30歳くらいの女性と、中国大酒店のスタバで会いました。彼女は奈良と京都の建造物に興味があって、日本に行きたいのだそうです。中国には唐代の建築はもう残ってないと嘆いていました。そして彼女の友だちが南京事件に関する本を出版していて、それを私に持ってきてくれました。もう一冊彼女が携えていたのは、渡辺淳一の本でした。とても好きなんだそうです。ちなみに彼の本はこちらでもよく売れています。

すぐ後ろの方で日本語で商取引をしている声も聞こえてきたし、街中に日本料理店の多いこと。スーパーの棚に並ぶ日本製品の種類も、北京とは比べ物にならないほど多いです。セブンイレブンもよく目に付きます。

日本車も多く、あ搭乗が始まりました。またあとで‥‥

今飛行機の中です。さすがにネットは繋がりませんが。なんか機体に不具合が見かったそうで、飛ぶかどうかわからなかったのですが、1時間遅れで離陸しました。多分0時を過ぎると思いますが、無事北京に到着してほしいです。

で、広州の日本製品のことなのですが、ここには広州本田もあるし、日本車がほんとうに多いのです。乗用車よりもバスやトラックの方が目に付きます。東方賓館の前から出ている空港行きのリムジンはどうやら全部ISUZUのようです。

それともっと驚いたことがあります。おとといのことですが、私は香港から東グァンという町に行くフェリーに乗ったのですが、フェリー乗り場の売店でなんと、「朝日」「読売」「日経」の3紙を売っていたのです。香港で印刷したものです。300円くらいしましたが、私は朝日を購入しました。小泉の靖国参拝の写真が目に飛び込んできたからです。(広州でも小規模な抗議行動があったようです)

そして謝さんは、いかにも観光客ふうにキョロキョロしていた私に、「どこから来たの?」と声をかけてきたのですが、もちろんその時点では私が日本人だなどと思っていません。まったくの偶然で出会った彼女の“日本通”ぶりには驚かされました。

今政治の世界では、日中は緊張状態にあるようですが、経済や文化、人の心は想像以上に自由に行き交っているのを、もっというなら、国というものがなかったら、人はもっともっと自由に行ったりきたりできるのにと、しみじみ感じた広州の町でした。              (2006‐08‐18)

林則徐記念館
「東グァン」という町は、広州から海の方へ1時間ほどの珠江の河口にあります。香港からフェリーで2時間、実は列車よりバスより速いのです。このあたりはまだまだ海運が盛んなところで、マカオやアモイの他、聞いたこともない町へもひんぱんにフェリーが出ています。その上に観光船も走っているので、海の上はとても賑やかです。ただし、発泡スチロール系のゴミが漂い、おせじにも美しい海とはいえません。

なぜこの町にやってきたかというと、「林則徐記念館」を見たかったからです。この町が第1次第2次アヘン戦争が戦われた中心の地で、発端になったといわれる、林則徐がイギリスとアメリカの艦船からアヘンを没収して燃やしたという池が残っているとガイドブックに書いてあったからです。

「林則徐記念館」へは交通の便が悪く、何度も道を聞いてようやくたどり着きましたが、訪れる人もなく、ほんとうに静かな熱帯樹茂る小公園になっていました。樹木が好きな私は、人ごみを離れて久しぶりにのんびりと‥‥したかったのですが、木陰に入っても肌にまつわる空気はねっとりと心地悪く、かつてアヘンを無毒化して流したという川は真っ黒などぶどろの悪臭で、メタンガスがプクプク噴き出し、とてもベンチに座る気分にはなれませんでした。林則徐が生きていたら、アヘンに代わるこの環境汚染をいったいどう思うのでしょうか?

記念館の陳列資料はどれも興味深いもので、古い写真やグラフ、文書、パノラマなどで、中国民衆がいかにして侵略者と戦ったのかがわかりやすく説明してあって、さすがに「愛国教育基地」というのもうなずけます。しかしそれにしてもこの静けさ。この日が特別だったのかどうかはわかりませんが、南京や瀋陽の記念館がひきもきらぬ賑わいであるのと比べると、さすがにちょっと首を傾げざるをえませんでした。

これまでにも「日本人嫌い」の中国人には至るところでお目にかかりますが、「英国人嫌い」の中国人に出会った記憶がないのです。香港など、つい最近まで占領されていたというのに、これはどういうことなんでしょうかね?                        (2006‐08‐19)

沙面のなぞ?
北京から大強行軍で、途中太原に1泊して、夕方7時頃に我が家に戻りました。とにかく疲れ果ててもう足元もフラフラおぼつかないほどです。なぜこんなに急いでいるかといえば、あさって日本から5人の学生たちが磧口にやってくるので、そこに合流しなければならないからです。

太原もかなり涼しかったのですが、標高2000mほどの樊家山はもう半袖では肌寒く、夜になってどんどん冷え込んできました。日中40℃の広州からまだ3日目ですから、またしても体調をこわしそうで怖いです。

ところで、8月16日付、沙面の“びっくりする応え”についてまだ書いていませんでしたが、それはこういうことです;

ベビー服を買うのは中国人ではなく欧米人、小さなスロープはベビーカーを押すためのものです。

つまり、この界隈に中国人の赤ちゃんとの養子縁組を斡旋する窓口があるそうで、養親になった主にアメリカ人(アメリカ領事館がここにある)のカップルが、グリーンカードを取得するために数日間白天鵝賓館に滞在し、その間にベビーカーを押して服や靴などを買いに来るのだそうです。

注意して見ていると、確かにベビーカーを押しているのは白人の中年から初老のカップルが多く、赤ちゃんの顔を見ると黒い瞳に黒い髪、明らかにアジア人の容貌なのです。中には白人夫妻にラテン系の少年、そしてベビーカーの赤ちゃんという家族も見られます。

日本でも“養子縁組”という制度はありますが、それは子供のない夫婦が親戚の子供をもらって家を継がせるという形式が多く、まして国籍が違う子供を養子にするというのはきわめて稀です。

しかしこれは日本の特殊性なんでしょうか?国境を越えて養子をとるということは、文化・風習的になじまないということなのでしょうか?だとしたらそれを培ってきた歴史とは?

もうひとつ考えたことは、中国には赤ちゃん専門の窃盗団(?)がいて、一度に数十人が保護されたなどという新聞記事を目にしたことが何度かあります。この窃盗団と、沙面をベビーカーに乗せられて行きかう赤ちゃんたちの間には関係があるのかないのか?

そしてまた、中国では赤ちゃんをもらったりあげたりする習慣が、少なくとも日本よりは社会的に認知されている行為だからこそ、多くの“中国残留孤児”たちが戦後の中国社会の中で生き永らえることができたのではないか‥‥等々、私は熱帯樹茂るコロニアルな風景の中でいろいろ考え込んでしまいました。      (2006‐08‐20)



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