えんぴつ2

デ・キリコ展をみに行った。

シュルレアリスムの先駆けと言われている、初めて知った画家のひと。

えらい土砂降りだった。
行ったことのある場所だったのに、美術館に着くまでに2回道を間違えた。

展示に足を踏み入れると、デ・キリコの肖像画が出迎えてくれた。
イタリア感。。スパニッシュ。。。
伊達男。。。
そんな印象だった。

皿に乗ったサラミや、ビスコッティ。
マネキンや、塔。

無機物にのったモチーフの中に、言葉にするのが難しい気持ち良さを感じた。

宗教画みたいに、共通認識から何かを示唆するのではなく、
個人の体験からでしか説明できない事柄を、一見無関係な絵で表現することの意味。
デ・キリコにとっては意味がある。
けど、これを見ている人にとっては意味がない。別の人の視点。
哲学だ。

けど、哲学を聞けばその絵は鏡になる。

自分はどう思ったのだろう。

デ・キリコの絵で心に残ったことは「戦争」の前後。

1920年前後の絵はなんとなく無機質感が増していて、でも、それは当時を知らないわしが見たからそう思っただけで、戦争を肌で感じながら描かれた絵だと思うと、鮮やかな色合いに緊張感を感じて、同時に戦争の最中も、全く同じとはいかないまでも多くの人が日常を過ごしていたんだなと思った。

無意味だなあ。

日常の中で繰り返される出来事や、
日々みる変わらない景色も新しい景色も、
変わらずきれいで美しく、
何が起こっても同じように朝がきて、同じような夜がきて、

ある日を境に朝が真っ暗になったり、
夜が夕焼けみたいになったり、
自分の見ている世界は滅多に変わらないや。

そんなことを思いながら、昔描いた絵のことを思い出していた。

成人するまでに完成させた絵は30点にも満たない。
授業で描いた絵、スケッチブックの3ページ、ノートに漫画1話、パネルの絵。

小学校の授業で描く絵は自分が描いた絵なんだろうか。っていつも思っていた。

7歳になる前に描いた犬のぬいぐるみの絵、すごい満足感だった。
お地蔵さん、人魚、ゴミ箱、落書き、

いつの間にか他者の世界で生きていて、こんな絵は役にたたないって思うようになった。
周りの人は描くことを望まないんだと思った。
自分のしたいことをするために、まずは相手の要求をのむ。
けど、相手をどんどん飲み込んで、結局よくわからなくなるのが常で、自分のしたいことは段々分からなくなってしまっていることに気づいたときには、だいぶしんどさを抱えた人になっていた。

いつから自分は他人の世界で生きているんだろうって気持ちが浮かんだとき、
思い当たったのはあの「えんぴつ」だった。
えんぴつの折れたジグザグの断面がわしの世界の膜を破って、
わしは無防備に他者の世界に放り出された。
自分の世界の中にいる状態で人の世界を認識できればよかったのだけど、相手が自分を攻撃してくるだなんて微塵も思っていなかったやわらかい世界は簡単に傷ついて、
世界は傷ついたけど、放り出された自分は案外平気だったから、そのままの無防備な状態でずっと他者の世界を彷徨っていたらしい。

えんぴつを折られた日からずっと、他人の世界で生きていた。

他人の世界に自分の世界を作ることは、相手にものすごく迷惑だし、あたりまえだけど、自分も勝手に癇癪を起こしてひどい状態だった。

自分の世界以外の場所をどうこうできない。

自然の摂理にのっとれば、他人の世界を漂うための自分の世界を確保できない限り溺れてしまうのだ。
必死でしがみついた船は他人のもの。

想像したら、とてもじゃないけど怖くて、よくここまで無防備な身ひとつの状態で漂っていたなって自分のことながら関心する。

いや、自分が強かったのはそうかもしれないけど、そんな状態で漂って来た人間を迎え入れて帰路に帰そうとしてくれる周りの人に恵まれたのも正しい認識なのだと思う。
というより、それがなければとっくに死んでいた。
いろんな人のおかげで、ようやく自分の世界に帰ってこられた。

約20年ぶりの帰還だ。
ながいわ。

あたりまえだけど、自分の世界は8歳のときに見ていた景色と同じだった。
少しずつ、時間が動き出すんだろうか。
時間は、まだ動いてほしくない気がする。
もうしばらく、自分の心臓の音だけの空間に耳をあずけたい。

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