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ヤングケアラーにとってのコロナ禍①

 私はいわゆるヤングケアラーとして育ってしまったのではないかなと思いつつ、気が付いたら成人を迎え、ますますそうだと訴えにくくなってしまった立場にあると、勝手ながら思っている者です。
そんな私がコロナ禍に身をもって体験した「身内だからこそ身内の面倒は見きれない」という話を今回はお届けできたらと思います。
長くなるので数回に分けてお話できたらと思います。初回は私の生い立ちと、どのようにしてヤングケアラーとして育ってしまったのかを整理していこうと思います。

 私の母は一人っ子で、同居していた祖母は私が幼稚園の頃に亡くなり、残された祖父の面倒を一家で行うのが当たり前だと思って育ちました。しかも祖父は研究一筋の学者で、封建主義も持ち合わせていたため、身の回りのことは一切自分では行ってくれない人です。そのせいか母の口癖は「おじいちゃんの世話があるから」となり、何をするにも我が家において第一優先事項は「祖父の世話」でした。
 それに加えて母の乳がんが発覚しました。私が小学5年の頃です。そのため私が小学6年時に母は検査や手術のため数回ほど入院生活を送りました。その間は一般的なサラリーマンの父、中学生の兄、小学生の私で家の事をどうにか行いました。相変わらず祖父は身の回りのことすら何もしようとしてくれないため、私は幼いながらに叱りつけてしました記憶があります。
 そんな中でも私は中学受験をさせてもらいました。母や兄が交代で塾まで迎えに来てくれました。しかしながら母が入院中は迎えの手が足りず、日が沈む前に帰るよう言い付けられていました。そのためか、未だに脳裏から離れない言葉があります。「冬期講習期間中、なんで授業の後残って自習していかなかったの?夏みたいに頑張ってたら(第一志望校に)受かってたのにね。」と当時の塾で私を担当していてくれた先生に言われた言葉です。本当の理由を言えたら良かったのですが、「私の乳がんのことは誰にも言っては駄目よ」「友達にも言わないでね」と母から何度も何度も言い聞かせられていたため、泣きたくなるのを我慢しつつ、苦笑いしてやり過ごしたかと思います。
 幸いにして母の乳がんは発見時ステージ1で、手術で完治し、ホルモン抑制剤を服用することで再発を防げるということでした。そのため母の闘病生活は私が中学に進学する前に終わりました。

 しかしながら、私がヤングケアラーとして過ごすのは、中学に進学してからが本番だったと今振り返ると思います。
母は入院生活のおかげで、闘病前より体力が著しく低下していました。それでも「家族みんなにちゃんとした生活を送ってもらいたい」というこだわりを持ち続けていたようでした。綿密な家事のスケジュールを組み、毎日3食の献立表を作成し、決めた順番通りに家事をしようと必死な様子でした。しかし母の体力は低下していたため、夕方ごろに数時間ほど仮眠をしないと夜ご飯にすることが出来ないなど、生活サイクルを乱れさせ、悪循環を生み出してしまいました。私は片道1時間半、兄も片道1時間以上かけて学校に通っていたため、朝は2人とも6時台に家を出発していました。学校行事や部活の朝練等でもっと早く家を出るときもありました。母はどんなに朝早くても朝ごはんやお弁当を用意しようと必死になってくれました。父や兄や私も可能な範囲で家事に参加してはいましたが、相変わらず祖父は全く何もしてくれず、よく母が激怒していました。
 そんな中、父方の祖父も亡くなりました。実の父親が家族に興味を持ちにくい人であったためか、母は父方の祖父をとても尊敬し、頼りにしていたようでした。そのためか、父方の祖父が亡くなってから精神がとても不安定になってしまいました。恐らくですが、乳がんの再発防止で飲んでいたホルモン抑制剤の副作用も出ていたのではないかと思います。父方の親族を敵とみなすような発言が増え、父に対しても本当かどうか曖昧な口実で、暴言を吐くようになりました。このままでは母が壊れてしまうのではないかと、幼心に不安になったのを鮮明に覚えています。私は少しでも母が直接父や父方の親族に暴言を吐くことを防ぐべきだと思い、なるべくたくさん母の話を聞いてあげるようにしました。

 そうしている間に、私は高校生になり、大学受験期を迎えました。そして私が高校3年の夏に母方の祖父の認知症が発覚しました。しかも要介護2とかなり重症でした。そこからは私にとってはもはや生地獄のような日々でした。
母は私に「おじいちゃんの介護は私が責任を持ってする」「あなたは自分の将来を考えなさい」と言ってくれました。しかし家に居ると聞こえてくるのは、罵声や怒号ばかりで勉強どころじゃありません。認知症になってしまった祖父に対しても「人間らしくちゃんとした生活をして欲しい」と母は願っているようでした。介護というよりも虐待になりかけているのではないか、家族が誰か怪我をしないか、と毎日怯えながら生活していました。
とはいえ、今私がすべきいちばん大切なことは、勉強をし大学に受かることだとは分かっていました。しかし学校で放課後自習をして帰るにしても、遅くなると最寄り駅まで家族が迎えに来てしまうし、ただでさえ回らない家の生活サイクルを悪化させてしまうだけでした。かつ、夜ご飯が夜遅くなるのが通常でしたので、一家で睡眠時間を削ってしまいました。そのせいか私は学校で授業中に起きていられないことがほとんどでした。
中学受験をさせてもらい、私立に入れてもらったのに大学に行かないわけにはいかない。でもとても勉強をする気にはなれないし、将来ってどう考えたらいいのかわからない。日々生きるのに必死で出来ることなら逃げ出したい。そんな心境でした。日々なるべく自分らしくありつつも、母や父に迷惑を極力かけないようにするので精一杯でした。

 そしてなんとか大学には入学できました。相変わらず祖父の介護を一家で行い、私は大学生活を送っていました。祖父の認知症は悪化するばかりで、あっという間に要介護3になってしまいました。それでも母は極力外部の方の手を借りたがらず、デイサービスやヘルパーさんを利用することも拒んでいました。私はこのままでは一家揃って倒れてしまうと焦りました。時間をかけて母を説得し、デイサービスに祖父を通わせることには成功しました。次は施設に預けて母を祖父の介護から開放してあげようとしていたときです。COVID-19の流行が始まり、あっという間にパンデミックとなりました。ただでさえ極力家にいたくない、家にいる限り罵声や怒号を嫌でも聞いてしまう。どうやって自分の身を守りつつ、家族の安全も守れるか、日々必死でした。とにかく早く祖父を施設に預けようとしました。
そのかいあってか、2021年の1月に祖父は無事に介護施設に入居できました。
これでやっと私は脱ヤングケアラーだ!!と大喜びしたものの、そんなことはありませんでした。コロナ対策のため、祖父との対面での面会が行えなくなったのです。祖父を施設に入れられたものの、今度はますます母を精神的に追い詰めてしまいました。

 だいぶ長くなってしまいましたね。振り返るのもしんどくなってきたので、続きはまた次回お話します。
ここまでお読みくださった方、ありがとうございます。1つお願いです。同情はしないでください!!この記事は私の主観で書いています。記憶を辿りながらですので、事実と異なる点もあると思います。このような体験をした人も居たらしい、そう受け止めていただけると幸いです!!

 改めまして、最後までお付き合いありがとうございました。良ければ次回をお待ち下さい。

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この文章は、「#いまコロナ禍の大学生は語る」企画に参加しています。

この企画は、2020年4月から2023年3月の間に大学生生活を経験した人びとが、「私にとっての『コロナ時代』と『大学生時代』」というテーマで自由に文章を書くものです。

企画詳細はこちら:https://note.com/gate_blue/n/n5133f739e708

あるいは、https://docs.google.com/document/d/1KVj7pA6xdy3dbi0XrLqfuxvezWXPg72DGNrzBqwZmWI/edit
ぜひ、皆さまもnoteをお寄せください。

また、これらの文章をもとにしたオンラインイベントも5月21日(日)に開催予定です。

イベント詳細はtwitterアカウント(@st_of_covid)をご確認ください 。
ご都合のつく方は、ぜひご参加ください。

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